「愛し、惜しまれる魂」

2012年12月23日
聖望キリスト教会 主日礼拝
ヨハネ3章16節 

「愛し、惜しまれる魂」
御父、御子、御霊、生ける三位一体なる神の御名を讃美します。
[1]序
(1)今朝は、2012年クリスマス礼拝、2011年でも2013年でもなく、歴史上ただ1度の2012年クリスマス礼拝です。
4月以来ヨナ書を通して、ヨナをニネベの人々を、そうです、「人間・私を惜しまないでいられない神」ご自身に目を注ぐ招きを受け備えられ、今、ここでクリスマス礼拝に参加できている恵みを覚え、感謝いたします。

(2)ヨハネ福音書3章1節から16節に見るニコデモと主イエスの対話をたどりながら,3章16節を、他ならない私自身への主イエスからの語りかけとして受け止め、「人間・私を惜しまないでいられない神」の御前に、「愛し、惜しまれる魂」として生かされている自分自身の恵みの立場をしみじみと確認したいのです。

[2]ニコデモと主イエスの対話、3回のやり取り繰り返し
☆第一段階
(1)ニコデモ→主イエスに、3章1、2節、
ニコデモ、ユダヤ人の指導者。「この人が、夜、イエスのもとに来て言った。」
彼がどのような人物であるかが問題ではない。主イエスのもとに来た、その一事が大切。
主イエス→ニコデモに、3章3節、
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」、ニコデモの必要を指摘。ニコデモも私たちも、本当は何が必要であるか自分では理解できないのです。

(2)ニコデモ→主イエス、3章4節
「どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか」。自分の考え・物差しでは理解できない、物差しが問題なのです。

主イエス→ニコデモ、3章5−8節・・・中心点「・・・御霊によって生まれた者は霊です。・・・あなたがたは新しく生まれなければならない」。「御霊によって生まれる」恵みの事実・可能性を、5節、6節、8節と繰り返し強調しています。まさに対話の中心点です。
Ⅰコリント12章3節、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」。ヨハネ14章ー16章では、主イエスがさらに詳しく約束の展開を。

(3)ニコデモ→主イエス、3章9節、
「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」

主イエス→ニコデモ、3章10節、
「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。」
 人か神への道ではなく、神から人への道、クリスマスの道。

☆第二段階
3章11節以降、主イエスがニコデモに語られることばはどこまで続くのか、
A.3章15節までを主イエスのことばとすれば、3章16節は福音書記者ヨハネのことば。
B.3章21節までを主イエスのことばとすれば、3章16節は主イエスのことば。
いずれにしても、ニコデモは直接応答していない、場面からニコデモは姿を消して行く。
再びニコデモが登場するのは、7章50節です。
ヨハネ福音書3章16節は、ヨハネ福音書を最初に読む人々への主イエスの語りかけ。
また今ここ、聖望キリスト教会のクリスマス礼拝に出席する各自への主イエスの語りかけ。

[3]3章16節は、ニコデモだけでなく、この記事を読む私たち一人一人に対することば
(1)「神は,実に」、「人間・私を惜しまないでいられない神」こそ中心。「はじめに神」

(2)「信じる者」、聖霊ご自身の恵みによりキリスト信仰への導き、Ⅰコリント12章3節。賜りたる信仰。キリスト信仰こそ、何よりも豊かなクリスマス・プレゼント。

(3)「永遠のいのち」、ヨハネ17章3節、「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」
 そのために道が開かれたクリスマスの出来事なのです。
ヨハネ1章14節、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

[4]集中と展開
(1)集中、「人間・私を惜しまないでいられない神」のみ前に、「愛し、惜しまれる魂」として生かされる自覚。ヨハネ3章16節の「世」のところに、自分の名前を入れて読む。

(2)展開、クリスマスを生きる。「然るに実行の愛に到っては、何のことはない労働と忍耐じゃ」。聖霊の導きによりこの道を歩むことこそ(ガラテヤ5章25節、「御霊に導かれ進」む)、高慢と絶望からの解き放ちです。恵みから恵みへの道です。祈ります。