ルカの福音書身読の手引き・その5

☆沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告。

ザカリヤの預言」
ルカ1章67〜80節

[1]序 
今朝の主日礼拝では、父ザカリヤ聖霊に満たされ預言した(67節)ことば(68節〜79節)を味わいましょう。これは、64節、「すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた」とあるように、洗礼者ヨハネの誕生と名前をつけることをめぐる出来事を通して、ザカリヤの心の中に満たされた「神をほめたたえ」る思いからのことばです。また「いったいこの子は何になるのでしょう」(66節)との近所の人々や親族の問いに対して答えを与えるものです。

[2]「主はその民を顧みて、贖いをなし」(67〜75節)
(1)「主はその民を顧みて」(68〜71節)
 まずザカリヤは、「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を」(68節)と、主なる神をほめたたえています。 
 68節では、イエス・キリストにある主なる神の救いの御業を三つの面から描いています。
①主はその民を顧みて。主なる神が民を尋ねてくださる恵み。

②贖いをなし、貴い犠牲を払い救いの道を開いてくださる恵み。

③救いの角を立てる。角は力を現し、敵を破り敵の手から解放。
 この救いの業は主なる神がダビデに対して約束されたこと、また預言者たちの口を通して備えがなされて来たことの成就としてのものです。キリストは王として統治をなしつつ救いの御業をなしてくださいます。

(2)「われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて」(72〜75節)
 主なる神はあわれみをもってアブラハムを契約の相手として選び契約を結んでくださいました。主なる神の契約の背後は、主なる神の「あわれみ」です。あわれみは、主なる神が「アブラハムに誓われた誓いを覚えて」(73節)くださるとあるように契約を守り給う主なる神の「真実」を通して現されます。
 さらに契約の相手として選んでくださった民がその立場にふさわしく歩む道をも備えてくださるのです。「われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される」(74節)。契約の相手として選ばれた恵みに答えて神の民として生きることが求められています。
 「神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです」(Ⅰテサロニケ4章7節)
「私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光の現われを待ち望むようにと教えさとしたからです」(テトス2章12,13節)。

[3]「日の出がいと高き所から」(76〜79節)
(1)洗礼者ヨハネの役割(76,77節)
 ここでは、洗礼者ヨハネについての近所の人々や親族の「いったいこの子は何になるのでしょう」(66節)との問いに対して直接に答えています。彼は、主の御前に先立ち行きその道を備える、いと高き方の預言者(76節)となるのです。これは、17節に見る約束の成就です。ヨハネの活躍について、3章10〜14節に描かれています。
 救いの知識は、罪の救しを内容とします。
 「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」(Ⅱコリント5章19節)
 キリストご自身が私たちの罪を担い、ご自身の義を私たちに与えてくださいます。

(2)「日の出がいと高き所から」(78、79節)
 主イエスの来臨を「日の出」として描いています。
 「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、
  義の太陽が上り、
  その翼には、癒しがある」(マラキ4章2節)。
 新約聖書で、主イエスを「光り」として繰り返し示しています。マタイ4章16節、ヨハネ1章9節、3章19節、8章12節、9章4,5節、12章46節など。
 暗黒と死の陰に座り続けて来た人々を解き放ってくださるのです。
 「やみの中を歩んでいた民は、大きな光りを見た。
  死の陰の地に住んでいた者たちの上に
  光が照った。」(イザヤ9章2節)

[4]結び
(1)備え、旧約時代の備え。アブラハムダビデとの約束を通して、長い期間に渡る備え。さらに80節に見るヨハネの生涯における備え。

(2)主イエスの来臨を光として。
 燭火礼拝の指し示すもの。