「声を掛ける」『礼拝の生活』再考その11

1973年2月4日
『礼拝の生活』118号

(巻頭言)「声を掛ける」 
 姫路の心友から電話がありました。
土木を請負の仕事をしながら、信仰の戦いを戦っている友・F兄です。
私の方からは手紙ですが、彼は時々夜おそく電話をしてくれます。その時々に、励まし合い、慰め合い、それぞれの信仰生活をともに戦えることを心から感謝しています。

先日の電話で、のお母さんが入信した頃のことを話されたのが、深く心に残りました。戦時中のこと、F兄のお母さんは行き始めた教会に、種々の理由で出席できないでいたそうです。そのような時、或る人から家庭集会に来ないかと声を掛けられたそうです
そこで、三人の小さな子どもを連れて、お母さんが家庭集会に出席したとき、集会は形式ばらず、子どものことに神経を磨り減らす必要もなく、聖書の説き明かしに集中することができたそうです。
そのとき以来、彼のお母さんは、信仰生活を忠実に歩み続けています。彼をはじめ、子どもや親戚の中から主イエスを信じる喜びに加えられた多くの人々がいます。ですから、三十年以上たつ今も、あの時、家庭集会に出席するように声を掛けてくれた人の信仰の行為は生きて働き続けているわけです
 
この話を聞きながら、考えさせられました。私たちは、いろいろな宣教計画を立てます。また、相手の気持ちをあれこれ配慮します。過去の経験から判断をくだします。しかし、声を掛けるチャンスを、あまりに多く見逃しているのではないかと反省させられました。  

別に大きなことをするのではなく、身近な人に与えられたチャンスを逃さず、声を掛ける。こんなことを、主は私たちに大いに期待されているのではないでしょうか。

☆あれからさらに40年後の今、F兄のお母さんの孫の一人、日本キリスト教団経堂緑岡教会牧師・松本俊之先生の説教集『神に導かれる人生』創世記12−25章による説教(キリスト新聞社)の書評を、『本のひろば』のため書いているところです。

 F兄は、1958年私が日本クリスチャン・カッレジに入学したとき、4人部屋の寮の3年生の同室者でした。土建業F組を経営する父親の召天のため中退することになりました。
しかし私たちの主にある交わりは、50年余継続するだけでなく深まり広まり続けています。
 そうです。声をかける掛ける一人でありたいです。