地域の中学校ごとの祈祷会『礼拝の生活』再考その117

1973年1月28日
『礼拝の生活』117号
 
(巻頭言)『今年の具体的な歩み(三)』 
 
教会学校の1972年度の目標は、新しい教師養成ということでした。
この目標が充分果たされない今、この四月からの教会学校は、1973年の目標であるクラスをふやすことは困難です。さらに教会学校にとっては、その根本的性格が問われる年になりそうです。教会学校教師が青年会メンバーであるという今までの傾向からも、青年会と教会学校が密接な関係にあるのは当然です。
しかし青年会の有志によって教会学校が運営されていくというのではなく、教会全体が文字通り教会学校に係わりを持ち続けるためには、今年の苦しい歩みは意味のあることと期待できます。
 
中学生会の1972年度の目標は、季節集会の充実、キャンプと個人的な導きなどがあげられています。
季節集会について言えば、秋には「約束の国」の映画伝道会を持つことができました。冬のミーティングは開けませんでした。しかし3月には、一泊の研修会が予定しています。また個人的な導きの努力も続けられています。
1973年の課題は、各中学校特別集会です。一中、二中、三中を対象に、特別集会を持つというのは、私たちの群にとっては、大胆すぎる計画です。
しかし私たちが青梅にあって中学生への宣教の責任を果たしていくことを考えるとき、これは押し進められるべき課題の一つであると確信します。
 
 高校生会については、1973年度の課題は中学生会からのメンバーの受け入れです。
中三の数名の忠実なメンバーを中心に、高校生会がどのような新しい歩みをなして行くかは、数年後の青年会の性格を左右し、教会の将来に対して、大きな影響を与えることは確実と見なければなりません。
 福音の内容に関する真剣な戦いは、福音の継承についての注意深い努力と平行することは聖書を通して教えられます。
 こうした点から、この年高校生会がどのような歩みを続けるかは、実に重大な課題です。教会全体の執り成しの祈りが大いに期待されます。
 
 家庭集会といっても、現在私たちの群の家庭集会は、文字通りそれぞれの家庭のメンバ−のみを中心として、横への広がりまで行っていません。
今年は、火曜日と金曜日に、それぞれ月一回ずつ持たれている家庭集会ごとに、年間のカリキュラムを作成する予定です。それぞれの家庭の必要に応じて、計画的に、全体的に聖書に聞き従いたいと祈り願っています。
各家庭において福音が生きられて行く、これはどれ程時間がかかるように見えても、私たちの進むべき道です。
各家庭集会が学びと祈りを通して充実して行くとともに、家庭集会どうしの横の連絡を密接なものとして深めて行くことも、1973年度の課題です。
 
 奥多摩集会については、犬塚夫妻が佐賀に帰り神学校での学びを始めることが、大きなニュースです。二人の奥多摩での奉仕の経験が将来大きな実を結ぶと確信します。
 また奥多摩での宣教活動も、地道に続けられることが期待されます。
2月と3月と充分祈りのとき、準備のときが与えられています。奥多摩での宣教は、私たちに与えられた特権です。
 
 小作地方の宣教は、今年大きなステップを進めようとしています。ラップ先生を中心としたトラクト配布などいろいろな試みから、さらに田住先生宅で2月から教会学校が開校されようとしています。
 小作地方で忠実にあかし続ける人々が起こされるように祈りましょう。忠実なキリスト者、そうです、主イエス・キリストのみ旨が成就し続けるために、苦闘することを喜ぶ人々が起こされるように。

青梅市内の各中学校特別集会について、「一中、二中、三中を対象に、特別集会を持つというのは、私たちの群にとっては、大胆すぎる計画です。」とさすがに認めています。残念ながらその結果の記憶も記録もありません。
 結果がどうであれ、「しかし私たちが青梅にあって中学生への宣教の責任を果たしていくことを考えるとき、これは押し進められるべき課題の一つであると確信します。」と言い切る30代初めの牧師の心意気が伝わってきます。

40年後の今、70代の「喜びカタツムリ」として、宮村青年牧師に語りかけたいのです。
「ここに一つの道があるよ、ペンケン祈祷会の道。
 一つの高校のため、同窓生が中心に祈り続ける道。
まず10年、いややっぱり30年との継続と継承の思いで焦点を絞って祈り続ける道。
 
そう青梅1中のため、同窓生を中心に二人が心を合わせて祈り続ける、
同様に2中についても、3中についても・・・
40年後どうなっているか。その結果も、その経過も恵み」と。

「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
(マタイ18章19,20節)