『怒って主に祈るヨナ』

2012年10月28日
聖望キリスト教会 主日礼拝
ヨナ書4章1−11節(1) 
『怒って主に祈るヨナ』

御父、御子、御霊、生ける三位一体なる神の御名を讃美します。
[1]序
(1)月に一度の割合で読み進めてきたヨナ書の味わい、今朝は最後の4章に入ります。10月と11月で4章を、ヨナ書の味わいの締めくくりをしっかりとして。
さらに12月23日には、クリスマス伝道礼拝とも言うべき時を。
ヨナ書をどのように語ってきたか、同時にどのように聞いてきたかが共に問われます。
お互い祈り備えたいのです。

(2)今朝は4章全体の流れを見通し、11月は4章10と11節に集中します。

[2]ヨブ記4章の位置と内容
(1)3章10節と4章11節に挟まれて
 3章を2回に渡って味わった際、3章10節が、ニネベの人々についての直接の話としては結びであることを確認しました。
「神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。」

 ですからある意味でニネベ宣教の話は表面的にはそこで終わり、俗な表現で言えば、ハッピーエンドの物語として完結する可能性があります。
ところが実際は、4章の内容が展開し、4章11節が4章ばかりでなく、ヨナ書全体の実に印象深い結びとなり、単なるハッピーエンドの物語ではなく、一段も二段も深くヨナ自身の内面を掘り下げ、人間・ヨナ、そして人間・私の実態を浮き彫りにしています。

しかもヨナ・人間の内面が明らかのされるばかりでなく、主なるご自身がいかなるお方であるか、「まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」と、創造者なるお方ご自身のあわれみ・愛の深さを明らかにしているのです。

(2)「怒って、主に祈って言った」、ヨナの怒りの問題点
①ニネベに対する主なる神の憐れみを受け入れられない。
4章2節後半、「。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。」
参照 ローマ12章15節、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」

②ヨナは、自分自身対する主なる神の愛と真実を認めていない。

③それにもかかわらず、ヨナは主に祈っています。何はともあれ、生ける主に祈りです。

[3]ヨブ記を参照に
(1)ヨブ記に見る鋭い対比
ヨブ記1章21節と3章1節の対比
1章21節[私は裸で母の胎から出て来た。
     また、裸で私はかしこに帰ろう。
    【主】は与え、【主】は取られる。
    【主】の御名はほむべきかな。」

3章1節「その後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日をのろった。」
そこからの展開、ヨナ書4章の徹底的に詳しい説明。

(2)ヨブとヨブの友人の違い、それでも彼らの関係
①42章7節「さて、【主】がこれらのことばをヨブに語られて後、【主】はテマン人エリファズに仰せられた。『わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。それは、あなたがたがわたしについて真実を語らず、わたしのしもべヨブのようではなかったからだ。』」

②ヨブ友人のため祈り、「わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈ろう」(42章8節)。

[4]集中と展開
(1)集中
 神のことば、ことば・教えと出来事・生活・生涯

(2)展開
①イズム・主義でなく、イズミ・泉。詩篇36章9節「いのちの泉はあなたにあり、
 私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。」

②生活・生涯の只中で、からだもって神の栄光を現す。
Ⅰコリント6章20節「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」