あの厳しい美しさ『礼拝の生活』再考その109

1972年12月3日発行
『礼拝の生活』109号

(巻頭言)「12月」 
 
誰でも、一年の中には、好きな月とそれ程でもない月があるのではないでしょうか。私たちの日常生活から、季節感が奪われつつあるとは言え、やはり季節の移り変わりは、微妙な影響を私たちの生活に及ぼします。
ですから、その季節の移り変りに、各自がそれぞれ異なった反応を示すのは、とても自然なことです。
 
私は、7・8月が好きです。朝早く日が出て、何か一日が長く感じられます。暑さは、どれ程厳しくても平気です。暑ければ暑い程、体の調子がよく仕事がはかどると言えます。

しかし寒さはだめです。寒がりには、冬は応えます。
ですから、12月と聞いただけで、寒さを一段と身に感じるような気がしてなりません。このように感じるのは、私だけではないのでは。
12月と聞いただけでこうなのですから、1・2月が思いやられます。

しかし、12月と聞いて寒さばかりを感じて震えあがっているかと言えば、そうばかりでもありません。12月には、身を引き締める緊張感があります。

そして12月と言えば、いつも思い出すことがあります。それは四年間の留学時代に経験したニュー・イングランドの12月のことです。夏から秋へと急速な変化をし、それは見事な紅葉があたり一面を着飾ったかと思うと、文字通り一斉に紅葉が落ち(fall・秋)、長い厳しい冬を迎えるのです。
12月、あらゆる無駄を振り落とした木々が、降り積る雪の中に立っています。あの厳しい美しさを忘れることができません。
枯木のように見えて生命そのもの、飾りも無駄もない姿。
12月と聞くと、あの姿を思います。あの生き方をしたいのです。

現在、各地の教会の主日礼拝に出席する機会の多い中での恵みの一つは、70代、80代の兄姉にお会いできることです。
突然ですが、あのニュー・イングランドの経験を思い起こすのです。
あらゆるレッテルが剥がされる中で、生命そのものが滲み出、飾りも無駄もない姿。

 これに対して、「枯れ木も山の賑わい」との考えや態度は、全く似て非なるものと判断します。
 手元の『ことわざ辞典』さえ、老人が謙遜して自らをたとえるのはともかく、他人や年少者が老人に対して用いるのは失礼に当たると説明しています。
 この失礼を人にも、主にもしないように心を注ぎたいのです。
あれ私も70代でした。いつまでもキリスト信仰に導かれた高校生時代の精神状態から抜けきれないものですから、失礼しました。