「福音宣教の使命」『礼拝の生活』再考その99

1972年9月17日
『礼拝の生活』99号
 
(巻頭言)「福音宣教の使命」 
 今、主なる神は、私たちの群に福音宣教の使命を再確認することを求めておられる深く感じています。
 日本新約教団の過去数年間の聖会の主題をふり返るだけでも、この一事は明らかです。たとえば、一昨年の主題は「唯一の君」、昨年の主題は「御霊によって歩みなさい」でした。そして今年私たちは、「キリストの形成るまで」との主題のもとに、私たちキリストの弟子・教会のあるべき姿を、もう一度はっきり自覚し、「キリストの福音にふさわしく生活」(ピリピ1章27節)することを新しく決心したのです。

 このように私たちは一貫した流れの中で、歩み続けてきたのです。いかにしてキリストの形成るのでしょうか。すなわちキリスト者、教会として生きる私たちの土台は何であり、また原動力はどこから与えられるのでしょうか。この主題こそ、数年間の歩みの中で、私たちが追求してきたことであり、私たちに明らかにされつつあることです。
 
 私たちに示されている道は明らかです。
イエス・キリストを「唯一の君」、王の王・主の主として大胆に告白する信仰告白に立って生きる道です。この道は、御霊によって歩む信仰生活において一歩一歩実現されていく恵みの戦いを通して可能とされていくのです。御霊によって歩む以外の道は、キリストの形成るまでとの目標を目ざしているキリストの教会には与えられていません。
 
私たちの土台と原動力がはっきりとした今、主なる神は、福音宣教の使命の再確認へと導いてくださっています。

キリストの教会は主なる神を礼拝する礼拝共同体です。唯一の、生ける、真の神を礼拝しつつ生きること、すなわち礼拝の生活を送ることこそ、教会の使命です。礼拝の生活の土台と原動力は明示されました。今私たちが教えられつつあることは、礼拝の生活を生きる教会は、決して閉ざされた群れではない一事です。キリスト者・教会は自分の殻に閉じこもったり、主なる神を知らない人々に対して無関心で生きることはできないのです。
礼拝の生活を生きる教会は、周囲の人々を自分と同じように礼拝の生活を送る者となるように伝道する、あかしする使命を与えられているのです。

 伝道やあかしを軽視するなら、私達の礼拝生活は絶対に不充分です。キリスト者・教会が、殻に閉じこもって、自分達だけが宗教的感情を楽しみ、いたずらに過去の思い出のみを持ち出し、現在の必要に鈍感となり、将来に対する幻を持たない時、それは死んだものです。伝道・あかしをしないキリスト者・教会は結局礼拝の生活を生きていない死んだものではないかとの反省が、今、私たちの群れ全体(日本新約教団のそれぞれの教会そして私たち青梅キリスト教会)の中から強くなされつつあると言えます。
 
 福音宣教というとき、私たちは二つの面から考えねばなりません。
一つは、教会全体の姿勢です。教会全体として福音宣教に対して、どのような重荷を持っているか、どのような幻を持っているか、どのような計画をもっているか、どのような予算を立てているか、こうした教会全体の福音宣教に対する姿勢が常に問われます。

しかし同時に忘れてならないのは、キリスト者各自の個人的な責任です。キリスト者各自が生かされているそれぞれの環境の中で、個人的に、ことばをもってどれ程伝道しているか、あかししているか、この点も鋭く問われなければ、教会全体としての姿勢は真に確立されません。
 福音宣教の使命が、教会全体としても個人としても果たされていくことこそ、課題です。

実は、1972年の時点で、「福音宣教の使命」についてこれほどはっきりと書いていたこと今回再考の機会を持つまで記憶していませんでした。

 1972年に書き記したことばを、2012年の今、私たちへのことば、また私たちのことばとして受けています。

 2006年4月首里福音教会を去る前後、私たち二人が、改めて受け止めたのは、Ⅱテモテ4章2節の命令でした。
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」

 2009年12月脳梗塞で倒れ、教会の組織、牧師給と牧師館から離れる具体的な歩みにおいて聖書のことばが、足のともしび・道の光りとなりました、。それに加え、聖歌292 番が特別に心に迫ります。

Ⅱコリント9 章10 節
「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、
あなたがたにも蒔く種を備え、
それをふやし、
あなたがたの義の実を増し加えてくださいます」。
 
 蒔く種ばかりか、食べるパンをも備えてくださると、真実なお方の約束。

Ⅱコリント9 章11 節
「あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、
それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。」

Ⅱコリント9 章15 節
「ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。」

聖歌292番
 聖歌292 番は心からの祈り、また確信となりました。

1 今日まで守られ、来たりしわが身、
つゆだに憂えじ、行く末などは
いかなるおりにも 愛なる神は
すべてのことをば よきにしたまわん

2 か弱きものをも かえりみたもう
わが主の恵みは この身にたれり
にぎおう里にも さびしき野にも
主の手にすがりて 喜び進まん

3 主の日ぞいよいよ 間じかに迫る
浮世の旅路も しばしのまのみ
間もなく榮の みくににゆきて
ときわに絶えせず わが主と住まわん

 青梅、首里時代には教会の組織への加入が福音宣教の目標として大きな比重を占めていました。
 その以前からの傾向を明確な方向へ導く一つの区切りとなることばが心に響きました。
昨年2月11日、沖縄で金城重明先生とお別れする直前に、
「ボンヘッハーが収容所で牧会したように、リハビリの場で牧会を続け
るように」ともったいない励ましを頂いのです。
 目的は何か。福音宣教においても、手段を目的にすりかえてはいけない。
 私なりに肝がすわりました。