子供説教『礼拝の生活』再考その98

1972年9月10日
『礼拝の生活』98号

(巻頭言)「9月の歩み」 
 私たちにとって意味深かった夏も終わりました。この9月は、夏の間に体験した恵みを教会全体の、また各自の日常生活において現実のものとしていく時です。また9月は、10月の積極的な伝道のために準備する時でもあります。ですから私たちの歩みの中で、9月は比較的落ち着いた月と言えます。
 
しかし落ち着いた月とは言え、この9月にも幾つかの大切なステップがあります。
まず第一は、私たちの主日礼拝のプログラムに二つの附加がなされる点です。
第一の点は、子どもさんびの讃美また子供を対象とした数分の勧めがなされるようになったことです
私たちは、この数ヶ月、キリスト者の家庭における責任について特に強く教えられてきました。またこの数年間、春と降誕節の時期に、教会学校と一般の合同の礼拝を守ってきました。こうした背景から見ても、主日礼拝において子供たちの積極的な参与の道を開いたのは、極自然な道筋です。

モーセを通してイスラエルの民に与えられている命令を、私たちの現実の生活において聞き従います。
 「民を、男も、女も、{傍点(子どもも)}、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も、集めなさい。彼らがこれを聞いて学び、あなたがたの神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばを守り行なうためである」(申命記31章12節)
 
主日礼拝におけるもう一つの附加は、報告のときに、その日の当番グループの中から短いあかしをすることです。
報告は、神のことばに応答して生きる神の民が、ある一定の地域で(たとえば青梅の地方で)、どのような歩みをなしているかを示す非常に重要なものです。そのような報告の重要性を自覚しつつ、各自の信仰の歩みの中から短いあかしを述べることは、神のことばに答えて生きる神の民の責任を一層深く心に刻む時となると共に、神の民の歩みを確かに導き給う主なる神を現実的に賛美する機会となるよう期待します。
さらに、私たちの今後の歩みにとって大切な意味を持っていると考える執事、執事補を中心とした当番グループ内の交わりが、こうしたことを通して一歩交わりを深めることができれば幸いです。
 
9月14(木)、15(金)には、横浜と青梅の青年会の合同修養会があります。昨年に続いて第二回目の集まりです。今年の主題は、「在日朝鮮人問題について」です。
日本人キリスト者に書き送られた崔勝久兄の同名のパンフレットをテキストにしながら、昨年の主題であった、「差別を越える福音」の最も具体的な課題に対する取り組みが期待されます。青年への宣教という私たちの課題が、目に見える面において大きな実を結んでいないように見える中で、主の導きを受けつつ地味な祈りと努力が積み重ね、積極的な宣教活動への豊かな備えの時となるように願います。

 また9月24日(日)午後4時半からは、中・高校生を直接の対象とする映画会(「約束の国」)が開かれます。初めての試みとして、チケットを百円で売ることになっています。中・高校生の主体的な参加でなされるこの機会がどのように用いられるか、本当に楽しみです。中学生が中学生へ、高校生が高校生へ主の恵みを伝えていく、伝えつつ成長していく、これこそ主にあって当然あるべき姿です。
 
9月は落ち着いた月です。しかし落ち着いた月とは、成長も活動もしない月ではなく、静かにしかし一歩一歩しっかりとした歩みを続ける月なのです。
主なる神は、私たちのような素材から、ご自身の作品を刻み出そうとされています。

1972年9月から、青梅キリスト教会の主日礼拝で、5分にも満たない子供を対象とした勧め・説教を開始した影響は、大でした。
通常の説教の内容を5分以内に求める集中の営み、さらに小学生を中心にした子供たちに注意を引きつけながら話す積み重ね。
子供たちが、主日礼拝の場に、しっかりした居場所を見出す助になりました。
そればかりでなく、今日の説教を集中に集中を重ねれば、一体何を何と語るべきか、説教者が集中力を鍛える修練になりました。
 さらに説教を聴く者にとって、子供説教は、一般の説教の良き備えとなりました。
時々、子供説教の方が分かりやすいとの声も聞きましたが。