親子鷹牧師その①

親子鷹牧師その①
 1958年からの日本クリスチャン・カッレジ在学中、心惹かれた主の恵みの一つは、キリスト者の友情でした。
 札幌農学校の実例やバルトとトゥルナイゼンの若き牧師間の友情を伝え聞き、心を熱くしていました。
 
 そのバルトやトゥルナイゼンとの関連から、後年、井上良雄先生の『神の国の証人ブルームハルト父子 待ちつつ急ぎつつ』(1982年、新教出版)を興味深く読みました。

 この書名の一部の「父子」との表現と豊かな含みは、身近な万代恒雄・栄嗣ご両人について再考する機会へと導いてくれ、以下のような一文を書きました。

二人万代
―私の万代恒雄、私の万代栄嗣―

[1] 序  
 毎年定期便のように、万代栄嗣先生のインドからのはがき、それはいつもはち切れるばかりの言葉で切り出されています。
  「主の聖名をさんびします。
   宮村先生、お変わりありませんか」

 その栄嗣先生のはがきを手にしながら、幼き日に、父なる神のもとに召された、万代聖美(きよみ)さんのことを思い出すのです。
 「主日聖日に誕生した女の子だから、聖美(きよみ)と名づけたら」と、高校卒業したばかりの私が提案。何事についても常に独創的な、あの万代恒雄先生がこの申し出に賛同し、実際に名づけたのです。
世代を越え子どもたちとも固く結ばれている、万代恒雄先生との最初の出会い。それは、1955年3月22日8時30分頃だったのです。そのとき、私は東京の江戸川区小岩公会堂の伝道集会において――初め伝道集会だとは知らなかった――聖書のメッセージを聞きました。

[2] 元手がかかっている

「公会堂にいっているらしい弟を迎えに」と母に頼まれて」集まりに。そこでは、長年中国で宣教して来られた、老宣教師が福音を明快に提示しておられました。万代恒雄先生の生き生きとした通訳で。
 キリスト信仰に導かれた私にとって、万代先生は、いつもものごとの中心を指し示してくださる存在でした。
 20名にも満たない学生など若い人々が集まる誕生したばかりの教会が、三日間公民館を使用するためどれだけの費用を支払ったのか。「宮村君、君には元手がかかっている、主のためにがんばってもらわないと」、私の万代先生は率直に話しかけてくれたのです。一歩間違えば、「えげつない」と躓きとなりうる微妙なことがらです。
 
しかし私には、必要な観点でした。伝道集会に出席する側から考えて、それだけですべてが終わりではない。伝道集会を計画し実行する側からも考える、複眼的な視点。
 人間側からのみ見るのでなく、父なる神からすべてを見る視点へと導かれるために。
 そして、「元手がかかっている」者として、全身、全生涯をもって、恵みに応答。

 あの伝道集会から40年以上経過した、今から10年前のことです。四国松山、万代恒雄先生の前夜式において、高校生時代以来先生から受けた指導すべてを感謝しながら、
Ⅰコリント6章20節を味読したのです。
 「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。
ですから自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」。
 
[3]「栄嗣との交わり有難う」 

私の手元にある、万代先生からの最後のはがき、それは下記のものです。
「栄光在主。
 とても幸いな交わりのとき、主にあって同じ使命にあってのよろこび、導き、すべてが感謝でした。
 いつの間にか五十二歳になっていて、私との距離が縮まったのです。それは、あの当時の自分が若かったということですが。―私の心は全く同じで燃えています。
 栄嗣との交わり有難う。
 クリスマスが近づいて感謝の中にも忙しくなりました。
 祝福を祈ります。     万代」

 十七歳と二十七歳で出会った二人が、はがきを万代先生が書いたときには、五十二歳と六十二歳。十歳の年齢の差が昔とは違って受け止めていたことを覚えます。
 栄嗣先生が留学から帰った直後、沖縄で再会。そのとき、私の書いたⅠコリントの註解のねらいを的確に捉えて発言した事実を、今も懐かしく思い出すのです。
 それ以来重ねてきた栄嗣先生との交わりは、恒雄先生との交わりと一貫していると同時に、常に進展していると自覚しています。
 私たち二人の主にある交わりを、最後まで万代恒雄先生が喜んでいてくださった、それは恵みの事実なのです。

[4]結び

 恒雄先生の召天後、栄嗣先生との交流は、さらに深められつつあります。これからも、益々と判断します。
 ですから、私の万代恒雄、私の万代栄嗣なのです。
 主の導きがあれば、二人万代の一貫性と進展性を柱に、『評伝 万代恒雄』を書きたい。これは、あまりに独り善がりのたわ言でしょうか。