神の恵みを無駄にしない恵み『礼拝の生活』再考その72

1972年1月16日
『礼拝の生活』72号

(巻頭言)「キリスト者のあかし」
  
1月9日の午後のあかしと交わりの集会、とても意味深いときでした。
参加した各自が昨年一年間の主にある歩みを通して、特に教えられ、学ばされた恵みを報告、生きて導き給う主なる神を心から賛美する機会を与えられました。
また新しい年の主にある目標や期待についても語り合いました。
 
このあかし会について考えるとき、パウロがコリントの教会に書き送った言葉を思い起こします。
パウロは、「それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで」(Ⅰコリント1章6節)と、キリスト・イエスがコリントの教会の人々に与えられた神の恵みを明らかにしています。
 パウロは、コリントの教会の現実にもかかわらず、神は真実であると断言しています。(Ⅰコリント1章10節)。いかなる環境の中にあっても、神の真実を見上げ続け、確信し続けながら生きるところに、キリスト者の信仰の歩みがあります。
 
しかし、コリント教会の現実と切り離されたものとしてのみ、神の真実・恵みをパウロは見ていたのではありません。神の真実・恵みは、実に、コリントの教会の人々の只中で確かなものとされているのです。
コリントの教会から目を離して、神を見上げるばかりでなく、コリント教会の現実を直視しながら、キリスト・イエスによってコリント教会の人々に与えられた神の恵みを認め、感謝しているのです。そうです。コリント教会の現実の中に神の恵みの実証を見ているのです。この事実を、パウロは、「キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになった」(Ⅰコリント1章6節)と言い切っているのです。
ここに、キリスト者のあかしの意味があり、1月9日のあかしと交わりの集会が、意味深いものであった理由があります。
 
キリスト者のあかしとは、私たちの不真実や弱さにも関わらず、神は真実ですとの告白するだけではありません。私たちの不真実や弱さから切り離されて、神は真実であるとの告白すると共に、私たちの不真実や弱さの中においても、神は真実な御方として私たちを現実的に導き給うと証言するのです。
ですから、キリスト者のあかしは、きれいごとではすみません。実に自らの不真実、弱さや罪が明らかにされる中で、神の真実、確かさと恵みが輝いて行くのですから。
私たちのあかしは、痛みを覚えながらの感謝なのです。
 

しかもキリスト者のあかしには、さらにもう一つの面がある事実を知る必要があります。パウロは、キリスト・イエスによってコリント教会の人々に与えられた神の恵みに感謝します。また、キリストについてのあかしがコリント教会の人々の中で確かなものになったと賛美します。
しかし、ここで満足しているのではありません。
この恵みの現実に立って、パウロは、コリント教会の具体的な罪、弱さを指摘しているのです。現実の中に生きて働き給う神の恵みを確信するので、パウロは現実の生活における責任をますます鋭く自覚しているのです。そしてパウロと同じ道を歩むようにコリントの教会にも心から求めているのです。
 
私たちキリスト者のあかしは、恵みにあっての悔い改めと新しい前進とを必ず中に含むのです。単に「ああよかった」との自己的な満足ではありません。
1月9日のあかしと交わりの集会においても、私たちの悔改めと新しい歩みへの決心があった事実を知らされます。しかし、それは、単にその時だけでなく、私たちの毎日においてこそ、生かされていくべきものです。
 キリストのあかし人としてのキリスト者の歩み、これは恵みであり責任なのです。

★1972に、いのちのことば社から発刊された、『新聖書注解』で、私は、最初、Ⅰ、Ⅱテサロニケを担当しました。これは、ハバートのセミナーでテサロニケを取り上げていたので、私にとってはそれなりの備えがありました。

ところが続くⅠコリントは、
①テサロニケを書き上げてから、比較的短時間に仕上げること求められたこと、
②テサロニケの場合のように前もっての備えがなかったこと、
③何よりもⅠコリントは、テサロニケに比較して大書簡であることなどで、
それなりの苦労をしました。

 しかし青梅キリスト教会のプレハブの書斎で、様々な制約の中でⅠコリントを読み進めていった歩みは、この「キリスト者のあかし」に見るように、牧会の上にも大切な導きになりました。

 その後の私の歩みに継続的な導きを与えた恵みを絞れば、次の二点です。
(1) 神の真実。
「神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。」(Ⅰコリント1章9節)。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」

(2) 神の恵みを無駄にしない恵み
「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」