『礼拝の生活』再考、その43

1971年5月2日
礼拝の生活』42号

(巻頭言)「キリスト者の自覚―春期修養会レポート―」 
 4月29日、一九七一年度青梅キリスト教会春期修養会が、ヘンリー・綾部先生を講師にお迎えして開かれ、感謝でした。一日の恵みを、もう一度思い起こし今年度の歩みの基盤を再確認したいと思います。
 集会の主題は、「キリスト者の自覚」。また、主題聖句は、エペソ人への手紙4:13。まず、この聖句を黙読、味読します。
 「私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全なおとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」。    

開会礼拝 
 開会礼拝においては、ルカによる福音書24:13〜32、エマオの途上の記事から学びました。この記事では、聖書が説き明かされ、主イエスと食卓を共にすることを通して、目が開かれ、彼らと共に歩き給うイエスを認めるにいたった二人の弟子の姿を描いています。これこそ、四月二十九日に私たちに与えられた恵みでした。聖書の説き明かし、聖餐、愛餐、また、交わりを通し、私たちも目が開かれ、どこに目を注ぎ続けるべきか改めて教えられたのです。
    
第一回講義 
 綾部先生の講義には、五つの要点がありました。
おとなのキリスト者として、神と人とに奉仕する者となるまでに成長する段階として、
接触、②求道、③信者、④教会員、⑤奉仕があると。
 
第一回の講義では、接触と求道が取り上げられました。
接触とは、天の父が、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる事実(マタイ4:45)を、キリスト者が生きることです。自ら選んだ場合、そうでない場合の違いにかかわらず、私たちは、数多くの人々との接触を持ちながら生かされています。このような人々との接触において、極自然の中に、マタイ4:45を生きるべきことを綾部先生は強調なさいました。私たちの目的(たとえ、伝道であっても)を、押し付けるのではなく、相手の立場を充分に認めていく、これが接触の中心課題だと教えられました。こうして、接触する多数の人々の中から、必ず、求道者、つまり、天の父を求める人が起こされるのだとの点を、講義を通して深く考えさせられました。さらに、起こされた求道者に、聖書が的確に説き明かされることが何よりも必要であると先生は指摘。
このように第一回の講義では、私たちの日常生活における人々と接触の位置づけ、求道の意味について、新しい面から光を注がれたのでした。
    
賛美とあかし 
 昼食の交わりでは、食卓にどっさり出された<せり>についての話題がしばらく続きました。昼食の後、山口兄の司会で、賛美と証しの時間が持たれました。第一回の講義を通して教えられたことのあかし、最近の歩みの中、また、過去一年の歩みの中からあかしと、参加者各自の異なる歩みを通し、恵みの中に、弱さを知りつつも戦い成長していく様子を聞き、実に意味深い時間でした。
    
第二回講義 
 第二回の講義では、信者と教会員の意味について学びました。
起こされた求道者は、一時的感情によってではなく、聖書の言葉に基盤を置いて福音を示されます。そのとき或る人は、キリストにある恵みに全人格的に答える決断をします。このとき、その人は、単に求道者であるだけでなく、キリスト信者としての歩みを始めているのです。しかも、ひとり孤立した状態で、ただ心の中で個人的に信じるというだけではありません。キリストを信ずるとは、キリストの体なる教会の一肢体として生かされる者となることであり、神の民の一員となる事実をも意味します。ここで非常に大切なことは、教会とは、一体何かの理解・教会観です。この点についても、第二回講義において、よく教えられました。特に、教会の組織の意味、教会に与えられている種々様々な働きの賜物について、綾部先生は具体的な例を示し、充分な説明をしてくださいました。
    
今年度の期待 
 賛美とあかしの時間が、過去の恵みについてのあかしの時であったとすれば、今年度の期待の時間は、現在から未来への希望を中心とした時間。
まず教会の現状が図解されました。勿論教会には、決して図解されない最も重要な要素があります。しかし定期集会、執事会、役員会を中心とした組織。各分会、家庭集会などの存在を通して、教会の全体像を再認識することは、やはり大切です。この全体とのかかわりの中、各自が主体的に、いかに恵みを生きるか各自の課題を語りました。
中でもラップ宣教師から小作地方の宣教についての非常に着実なビジョンが報告されたことは、特筆に価します。
    
聖餐、愛餐、歓迎、歓送会 
 続く集りは、聖餐式を中心としたものです。
イースターに洗礼を受けられた福岡姉妹を加えて、朝からの聖書の説き明かしを思い起こしつつ、キリストの食卓にあずかり、キリストの体の一肢体の自覚、キリストにある一致の自覚を、さらに深められました。
愛餐の中で、入会された福岡姉、転入される木村姉、鈴木姉、伊藤姉、東京キリスト教短期大学からの犬塚兄、藤井姉、また沖縄に帰郷して文書伝道の働きをなす嶺井姉に対して、心からの歓迎や歓送の意が、各自に聖句を手渡し示されました。また、嶺井姉が沖縄のスライドを見せて下さり、姉妹の今後の働きについて理解を深めました。
    
第三回講義 
 最後の講義では、奉仕について。朝から各集会で学んできたことを、全体として再考する機会でした。さらにマタイ25:14〜20のタラントの話を通してキリスト者の本来のあり方が明らかにされました。タラント(賜物)について大切なこととして、与えられたタラントは、与えた主である神ご自身のものである事実を綾部先生は強調なさいました。そして、タラントの私有化がいかに恐ろしいものであるかが指摘なさいました。
 また与えられたタラントを地の中に隠しておくのではなく、各自が置かれたいかなる場所においても、与えられた限度に応じてタラントを豊かに用いるべきことを強く勧められました。タラントを充分に用いて積極的な奉仕することなしに、キリスト者は本来の在り方を生きることはできない。奉仕なしに喜びはありませんと。
 
 こうして、接触、求道、信者、教会員、奉仕のサークルは、神の恵みのサークルです。この神の恵みのサークルは、私たちのような者を通してすら歴史の中に展開し続けるのです。これこそ、神の民の歴史です。私たちは、神の民の一員として生きる者として、神の国の完成に向って生かされる途上にある者なのです。このキリスト者の立場を自覚して新しい年度を生きること、これが「キリスト者の自覚」なのです。
 もう一度、主題聖句を味わって見ましょう。
 「私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」エペソ4:13

★ヘンリー綾部先生の写真 
 40年前青梅キリスト教会春期修養会の講師・ヘンリー・綾部先生の感動的な写真を、
実は一昨夜、沼津港町教会の有野先生のお宅で見せて頂きました。
長い期間、綾部先生は、東京キリスト教短期大学と聖書神学舎で新約学を中心に教鞭を取られました。
 ハワイ生まれの日系二世の先生は、日本での働きを終えられた後は、郷里に帰られ、なお宣教活動を続けておられました。しかし晩年は奥様がご自宅で介護を続けるのが困難なほど先生の状態が良くなく施設に入られたと沖縄で伝えきました。

 一昨夜、有野先生が見せてくださった写真は、その施設で撮られたた写真なのです。
教え子・有野先生からハワイへ送り届けられた説教テープに聞き入るすっかり老衰した、同時に何とも言えない存在感を伝えるお姿に、綾部先生の数十年の日本における歩みと働きを覚えました。
 1971年のあの元気な先生も、老衰なさった先生も、全く同じ主の御手の中にある恵みの事実を心に刻みました。アーメン。