『礼拝の生活』再考、その41

1971年4月18日
『礼拝の生活』40号
 
(巻頭言)「キリストの体の神経」
 
先日、教会全体の電話網を示す紙が、文書委員会から配られました。
とても便利なものです。緊急の場合、二−一三三九に電話をすれば、一人が二、三人に連絡をすることにより、直ちに全体に連絡が行き渡ることが可能なのです。
 
ところで、この電話網は、あるべき教会の姿の一面を私たちに教えてくれています。
 青梅キリスト教会は、青梅市師岡一三三八番地にある建物ではありません。
家庭や職場にあって、キリストの恵みにより、地の塩、世の光として生かされている各自が大切なのです。そしてキリストの体の一肢体として、それぞれの場にある私たちは、決して孤立した存在ではありません。キリストを頭とする一つの生命体に属する一員なのです。このように私たちは、キリストの交わりの中に生かされているのです。

しかし、現実には、全員が毎日顔と顔を合せて生活をしているのではありません。ばらばらになり散らされて生活しています。
こうした現実の中で、電話網が整えられたことは、私たちキリストの体の中に本来ある神経の働きが、より活発になる可能性が新しく開かれたことを意味します。
しかし電話網は、どこまでも外面的なものに過ぎません。それを通して、どのようなメッセージが、どのように伝達されるのかが、根本的に重要な課題です。キリストの意志のみが伝えられるように、深く注意しながら、電話網を用いるように気をつけましょう。
 こうして、電話網も、真にキリストの教会として私たちが行き続けるかどうか、一つの挑戦です。

★1971年から40年後の今、このブログを含めて互いの連絡手段の発達や多様化は、あの一枚の電話網とは比較になりません。
 それらを活用すると共に、目に見え手で触れ実体の明らかな手紙の大切さを改めて確認しています。
 
電子による連絡手段が、聖霊論との関わりで吟味される必要があるとすれば、
手紙は、キリストの受肉の事実を重視するキリスト論的側面からの思索と活用が求められるのではと判断します。
 複雑で多様化されている現実に処する道への示唆が、案外40年前のより単純な状況のなかで確認された原則の中に潜んでいる可能性が大いにあると推測します。