『礼拝の生活』再考、その39

1971年4月4日
『礼拝の生活』38号

「一年を顧みて」
 4月4日の教会総会を前に、過去一年間の歩みを顧みる機会を与えられています。
そしてキリストの教会がキリストの教会として真に生き続けることの重さを、今一度考えさせられています。
 
青梅キリスト教会の過去一年間の歩みは、それ以前の教会の歩みからも、またこの一年間の社会の流れからも切り離すことの出来ないものです。私たちを取り巻く種々様々な制約をいかに深く受けながら生きているかは、私たちの想像以上です。そうした制約の中で、私たちが主なる神の言葉に聞き、聞き従って生きてきたとどういう意味で言え切れるでしょうか。これこそ過去一年間の歩みを顧みて、何よりもはっきりと私たちが自覚すべき問いです。
 
 過去一年間、私たちは種々の集会を守ってきました。また幾つもの行事も営んできました。そうした中で、単純なしかも基本的な上記の問いを問い続けていくことが、どれほど必要であるかを痛感しています。
そしてこの時代に、この青梅に住む私たちに対する主なる神の御旨を深く聞き、聞き従い生きる教会として歩み続けたいと心から願うのです。
 一年を顧みて、いかに強く現実的な制約の下に私たちは生かされているかを痛感します。同時に、そうした制約をありのままに認めた上で、それでも注がれ続けた恵みを覚えます、感謝。

★1971年4月、1970年3月からの1年を回顧して、制約について繰り返し言及し手いる事実に気付きます。1年の歩みを経過して、この時とこの場所との限定の中で、主なる神の言葉に聞き、聞き従って生きるキリスト者・教会が直面する制約をありのままに認める、主にある健全さを与えられつつあったと、今も感謝するのです。

「そうした制約をありのままに認めた上で、それでも注がれ続けた恵みを覚えます、感謝。」とは、毎週の主日礼拝での宣教を中心にする主なる神の言葉に聞き、聞き従って生きようとする、その後の年月への展望でもあります。
 増し加わることがあっても減ることのない制約の中で、16年週を追って連続講解説教を青梅キリスト教会の東青梅また小作の講壇で継続、次の牧会者二人にバトンタッチして、沖縄へ向かいました。
 
 昨年5月、25年振りに関東に戻って1年。
基本的には、あの1971年4月、青梅での1年の営みの後の回顧と展望と同じであり、40年前の文章に共感します。

 しかし違いもあります。
 制約に含まれると考えるには、少し異質の経験です。
 青梅でと同じく、首里福音教会でも営みを続けました。
首里に行く前から2年間送ったテープを含め、主日礼拝の連続講解宣教を中心に、沖縄で聖書を聖書で沖縄を読む一事に徹したく願ったのです。
 青梅で次の牧会者へのバトンタッチに成功したとの自信、いや高ぶりがあったため、
人々の忠告や心配に耳を向けることなく、2004年3月次の牧会者を教会と沖縄へ紹介したのです。今度も成功と思いきや、2006年3月私自身が教会と日本福音キリスト教会連合を離れる事態になりました。
 この経験を通して、ローマ16章18節や使徒の働き20章を初めとする、旧約聖書以来一貫している聖書箇所を単に知識としてではなく、味読・身読することになりました。

 2006年4月からの歩みについては、「首里福音教会を離れて良かったね、沖縄教会に広く仕えるようになって」、さらに2009年12月の脳梗塞発症後には、「病気になって良かったね、すっかり明るくなって」と、喜びカタツムリの歩みを幾人もの方々に励まして頂きました。


 今、関東での一年を回顧、今後を展望しています。主の導きへの確信し、感謝して。