『礼拝の生活』再考、その28

1971年1月3日
『礼拝の生活』第27号

(巻頭言)「新しい年を迎えて」 
 
 新しい年を迎えても、心の中に願うことは全く同じです。聖書の豊かさを真に味わいたい、キリストの体なる教会の豊かさをさらに深く体験したいとなど、昨年4月青梅に移って以来常に求めながらも、なお充分に果せなかった課題を改めて今年の歩みの中で現実化していきたいとの望みです。
 二つの望みを、青梅キリスト教会の聖徒の交わりの現実の中で追い求めたいと考えています。私自身キリストの教会の一肢体として、全体の中で全体の為に生かされている、小さな者として。しかも小さな者なりの責任を与えられていると自覚しながら。
 
 しかし新しい年を迎えて強く考えさせられている、もう一つの課題があります。
それは、私たちが生かされている時代の重みについてです。1971年という時代に生かされているキリストの教会として、私たちはどのような具体的な使命を与えられているのか、この課題です。
 モーセモーセの時代に、エレミヤはエレミヤの時代に、具体的に生き戦いながら、神の言葉を聞き、神の言葉を生き、神の言葉を伝えていた事実を、私たちは学んできました。このように、歴史を貫いて旅をする民であるキリストの教会の一員として、私たち各自は、聖書の宣言に根ざした時代的センスを求められています。これこそ、青梅キリスト教会が、また教会の肢体である私たち各自が、今年受けている特別な挑戦ではないでしょうか。

★このように1971年を、青梅キリスト教会で迎えていたのか。感慨無量です。少なくとも二つの点、方向をめぐり再考します。
(1)1回性の事実に基づく真の新しさ 
「新しい年を迎えても、心の中に願うことは全く同じです」
昨年12月と新年1月の間に、何か区切りを見る見方や感じ方から、今はさらに遠くなり否定的にさえなっています。
 
 進むべき道は、はっきりしています。今年のペンテコステ礼拝について、聖望キリスト教会において確認した、新しさの根拠を1回性の事実に基づく自覚の道です。以下のように要約出来ます。

2012年のペンテコステ礼拝、確かに昨年も来年もペンテコステ礼拝があり、いつもの年と同じように見え、また今年もいつものようにペンテコステ礼拝と考え勝ちです。
 しかし2011年のペンテコステ礼拝でも、2013年のペンテコステ礼拝でもなく、
まさしく2012年のペンテコステ礼拝なのです。
 少なくとも三重の特別な意味・位置を確認したいのです。
私の生涯で、ただ一度の2012年のペンテコステ礼拝。
聖望キリスト教会の歩みの中で、ただ一度の2012年のペンテコステ礼拝。
そうです。創造から再創造(キリストの再臨)まで、神の救いの全歴史の中で、実にただ一度の2012年のペンテコステ礼拝なのです。
 そのようなペンテコステ礼拝に、今朝、私たち一同でともに参加できているとは。何と言うことでしょう・・・本当に。
 さらに私たちだけでなく、諸所各地で。特にカナダのバンクバーを覚えます。

(2)聖書の宣言に根ざした時代的センス
 この点については、G. ウォスとの出会いと私なりの掘り下げ(宣教、授業、執筆)を通して、青梅での16年、沖縄での25年、今も小さな展開が継続していると理解しています。