聖歌に見る笹尾鐵三郎の信仰と神学

聖歌に見る笹尾鐵三郎の信仰と神学
[一]序

(1)何故、今笹尾鐵三郎先生か
 「こういうわけで、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようでありませんか。」(ヘブル人への手紙12章1節)

  私たちキリスト者・教会の歩みは、恵みの歴史を忘れず先達の歩みを通して教えられて行くものです(ヘブル11章)。しかしそれだけでなく、恵みの歴史を担った先達に、今ここでの私たちの信仰の歩み・戦いを見ていただいてる意識と自覚を持つのです。今,ここでの私たちに委ねられている特権と責任を悟り、喜び答えて行く。それが私たちの歩みです。私たちの生活であり、生涯です。私たちの先達の代表的なお一人、笹尾鐵三郎先生の信仰と神学を知ることは、私たちのキリスト信仰の歩みにとって大きな助けとなると期待します。

(2)聖歌の言葉・内容の味わい
 歌詞の内容を味わい、その内に含まれているメセージに聞きつつ、信仰の告白としての賛美をささげる恵みの特権を用いる、これこそ私たちの礼拝の喜びの一つです。
 聖歌の中に数多く含まれ愛唱されている笹尾鐵三郎先生作詞のものをいかに味わい賛美するかは,私たちの聖歌の歌い方と深く関係します。

[二]笹尾鐵三郎先生の略歴と作詞の聖歌[三]206番 『しみもとがも』の味わい

(1)全体の構造
 主イエス・キリストの十字架に現されている恵みの事実。
 主イエス・キリストの救いの御業を、「わがため」と,今,に生かされている自分自身への恵みとしてしっかり受け止める。このことが出来るのは、聖霊ご自身の恵みの働きによる。
 参照ヨハネ14章26節,15章26節
   Ⅰコリント12章3節
 主イエス・キリストの十字架、復活、そして再臨に堅く立つ。
 主イエス・キリストの再臨を待ち望む者として、十字架を担いつつ進む日々・人生。

(2)各節の味わい
1節.主イエス・キリストは,どなたかをはっきりと知り告白する。    
2節.主イエス・キリストの救いの御業を「わがため」と受け止める。    
3節.主イエス・キリストの救いの御業の理解、参照ガラテヤ3章13節。
4節.聖餐式の理解。
5節.主イエス・キリストの再臨の約束と希望。
6節.キリスト者・教会の生活・生涯,十字架を担う喜び。

◆ここには,神の恵みの一面や一部でなく、両面・全体を受け止め応答して行く生きる姿勢を見ます。何故このようなことを笹尾先生が実現しえたのでしょうか。それは,聖書を全体として、いつも読み続けたからに違いありません。この点を十分教えられたいのです。

四]結び 
 
聖書の教えは、教えに答えてどのように生きるかと切り離して示されていません。聖歌206番に鮮明に描き出されている笹尾鐵三郎先生の信仰と神学はこの事実を指し示しています。今、ここで、聖書が示す主イエス・キリストの再臨の希望に堅く立ち、どのように生きるかを抜きに、神の恵みを受けることは出来ないのです。聖歌206番に示されているキリスト者・教会の生活・生涯には、少なくとも以下の特徴を含んでいます。
(1)個人の終末と世界(宇宙)の終末との正しい関係

(2)主日から主日
  目標を目指す生き方。
  参照創世記28:10
  〜から自由,〜へ向けて自由
  参照創世記12章1節以下 旅人アブラハムのごとくに
  レビ記23章から25章に見る礼拝の生活のリズム
  地域教会の主日礼拝の大切さ

(3)10年から10年へ
 ヨハネ黙示録の大切さ、ヨハネ黙示録1章8節。
 「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり,オメガである。』」  
10年から10年へ
 1コリント15章が大切、58節の勧め、慰め
 内村鑑三、『一日一生』

◆今後の課題、『笹尾鐵三郎全集』(全五巻)の味読。その中の一つ一つの精読、例えば、「ヘブル書講義」。
 それに基づくテーマの研究、例えば、『笹尾鐵三郎に見る日々の理解』など。
聖歌206の外、聖歌253 4番 「むかしもいまもかわりなき主は」    
聖歌280 3番 「ひび主をまつみはうたわざらめや」
聖歌292 1番 「きょうまでまもられきたりしわがみ」
      3番 「主の日ぞいよいよまじかにせまる」
聖歌458 3番 「ひびおのれをすて十字架をとり」
聖歌502 おりかえし「みむねのまにまにひびしたがいつかなん」
聖歌722 3番 「十字架のなやみ日々おぼえつ」