『礼拝の生活』再考、その21

1970年10月25日
『礼拝の生活』20号

「12月19日、20日」 
毎週主日礼拝後、讃美歌の練習が続けられています。12月19日、20日青梅市民会館での集まりに備えて、地味な歩みを重ねているのです。この12月19日、20日の集りを通して私たちの群が、「青梅」キリスト教会と呼ばれる責任が、一つの形をとって答えられていくよう期待します。
それは多くの一つに過ぎません。しかしその一つの実現のためにも長い間の準備が要求されるわけです。
 青梅キリスト教会程度の人数の群で、特別に外部から音楽チームなどを招くことなく、讃美歌を中心とした市民向けの集まりを計画するのは、一見無謀に思われます。しかし私たちがあえてこの計画を実行するのには、それなりの理由と目的があります。

まず讃美歌を聞くばかりでなく、許される範囲で主なる神を私たちなりに心から賛美したいという願いです。これは素朴な願いです。しかし意味のある願いです。
詩篇40編3節には、
「主は、私の口に、新しい歌、
 われらの神への賛美を授けられた。
 多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう」とあります。

主なる神御自身が、私たちの心に、口に賛美を授けられるのです。神が与え給う賛美の思いに応答して、私たちなりに、私たちの中からも主なる神へ向け讃美歌を歌い出すのは、とても自然なことです。
私たちの口びるがゆるみ、心に与えられた賛美が口から讃美歌として表現されていく過程において、地味な歩みが続けられる必要があります。主なる神御自身が賛美の思いを与えてくださっている一点を見つめ、しかも一歩一歩の地味な歩みを失望して投げ出すことなく、私たちは練習をなし続けて行くことが出来れば、さらに次の段階へと進む道が必ず開かれて行きます。
 次の段階とは、主なる神へ向けてのダイナミックな讃美歌が、単にある時、ある場所でばかりでなく、いつでも、どこでも歌われていくことです。
ですからそのために新設の音楽委員会の使命ははっきりしています。
 次の世代にも賛美の霊が注がれ、讃美歌の形をとっても、時と場所に根差して表現されるように望みながら、毎週の練習のため祈ります。直接参加する人も、そうでない人も、深い自覚を持ちつつ小さな歩みを忠実に続けて行くのです。12月19日、20日を目ざして。

★聖書と讃美歌と一組に表現されます。私たちのキリスト信仰の実態を反映しています。
聖書から切り離されずに讃美歌も、私たちの歩みに恵与された特別な恵みの道具です。
主日礼拝を中心とする公の集会ばかりでなく、個人の歩みの様々な場面で、信仰の杖となっています。
私の小さな歩みにおいても、例えば笹尾鉄三郎先生作詞の聖歌は、喜びのとき、苦しみの時、いつも最も身近にあり続けています。