『礼拝の生活』再考、その15

1970年9月13日
『礼拝の生活』14号
(巻頭言)『夏から秋へ』
 
 教会の歩みの深まりが、平凡な戦いを通して実現されていくということを、もう少し、考えてみたいと思います。
 まず、「平凡な」戦いという面を思いめぐらす必要があります。教会全体としてもキリスト者各自にとっても、私たちの戦いは、極自然な日常生活の連続の中での戦いである事実をはっきりと認めることが大切です。つまりキリスト者の戦いは、キリスト者が現実の世に生きる人間であることをやめるのではなく、極当たり前の歩みの中で一歩一歩の戦いなのです。この戦いの平凡さの中で、私たちが決して忘れてはならない要があります。それは私たちが常に原則に徹する基本です。神の恵みの事実をありのままに見据えていくことです。神の恵みの事実を事実として、ありのままに見上げること受け入れることです。
 
 しかし同時に忘れてならないことは、平凡であるが激しい戦いをキリスト者は戦っていく他の面です。聖書が戦うキリスト者について記す時、戦いの性格や激しさがはっきりと描がいています。
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです」(エペソ6:11、12)。
 ですから何をすべきか、13節以下を深く深く味わう必要があります。
「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
足には平和の福音の備えをはきなさい。
これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。
私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」

★地上では、戦闘の教会の一員である事実を聖書がいかに繰り返し強調しているか、ますます心に留めています。
 同時に地上の戦いを終えた天の勝利の教会との関係が、今やとても身近密接です。年を重ねることの恵みのなかでも格別なものの一つです。