『礼拝の生活』再考、その②

1970年6月7日発行、『礼拝の生活』第1号

「礼拝次第の報告―その豊かな意味の一端―」
 「前奏から始まって後奏にいたるまで、礼拝次第は、讃美(詩篇・賛美歌)と御言葉(聖書・宣教)と祈り(言葉・献金)によって満たされ、全体として公同礼拝を形成しています。それは、「万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。栄光がとこしえに神にあるように、アーメン」(ローマ11:36)との聖書が宣言する信仰の一表現、しかも非常に重要な表現です。

 では報告は、この公同礼拝の中でいかなる位置を占めているのでしょうか。礼拝の中で伝えられる週報に記す報告は、教会全体の、また教会員各自の歩みの中で、教会員全体が知るべき実際的出来事の連絡です。
報告の内容が週報に書かれている事実は、少なくとも二つ意図、つまり確実性と公開性を指し示します。逆に言えば、確実でないもの、公開すべき性質でないものは、礼拝次第の一部として週報に印刷すべきではないのです。

 報告の重要性について思い巡らす時、パウロがローマ教会訪問を希望する理由のひとつとして、「あなたがたとわたしのお互いの信仰によって、共に励まし合うためにほかならない」(ローマ11:12)と語っている事実を忘れる事ができません。
 さらに、ピリピの教会に心から信頼するテモテを派遣する理由として、「それは、あなたがたの様子を知って、わたしも力づけられたいからである」(ピリピ2:19)と述べています。そうです、パウロ自身、ローマの教会の各自に与えられている信仰により励まされ、さらにピリピの教会の人々の様子(確実な、公開的な報告)を開いて、力づけられる必要があったのです。信仰生活は、決して孤立した歩みではないと強く教えられます。
 パウロ自身が体験していた恵みの事実を各地の教会全体に勧めています。
「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマ12:15)、
「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ」(Ⅰコリント12:26)との恵みの一面がわたしたちの教会においても、礼拝次第を通して具体化され続けるように期待します。
礼拝次第の報告は、キリストの生けるからだ・青梅キリスト教会の神経です。」

再考→礼拝次第の報告の重要性に対する確信は、その後もますます強まりました。
ついには、報告は礼拝次第のほぼ中央に位置するようになり、その説明のため時間を割き、説教と報告の密接な内的関係を深く意識し続けました。

 さらに今日的意味としては、社会的な情報公開との関連があります。
 地域教会が的確な礼拝報告を刻む地道な営みを継続することによりセンスが磨かれ、正常な情報公開を生み出す地の塩的役割を果たしうると期待します。