聖書 沖縄 人間・私

★高校生時代、秋本幸二少年(現日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド牧師の宇都宮栄光キリスト教会牧師)から手渡された一冊の新約聖書を通して、キリスト信仰に導かれました。1955年3月22日、東京都江戸川区小岩でのささやかな恵みの出来事であり、敬愛する佐藤全弘先生が「聖書のみにすがって生きる」と言って下さった生活・生涯の初めの一歩でした。
  
1986年4月1日、家族で沖縄へ移住、数年間いわゆる無牧が続いた首里福音教会の牧師となり続く25年間沖縄の生活。3年間準備し後ろの橋をすべて切り捨てたところで、思わぬ事態のため前に進めず、一瞬ほかに行く所がなかったのです。
かくして、聖書 沖縄 人間・私です。以下は、その歩みの一つの報告です。
日本福音主義神学会は、私が属すただ一つの学会です。

この40年、−日本福音主義神学会の一員として−」
(『福音主義神学』40周年記念号寄稿)
 
[1]序 1970年からの40年の歩みは、まさに神の恵み。「神の恵みによって、私は今の私になりました。」(Ⅰコリント15章10節)との信仰告白に声と心を合わせます。日本福音主義神学会の一員として、「この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた」(ヨハネ1章16節)のです。ですから、「わがたましいよ。【主】をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103篇2節)の呼びかけに応答して小さな神の恵みの神学の序曲を奏で、小文を紡ぎたいのです。
 
(1)設立総会出席
1970年、東京の練馬バプテスト教会で開かれた日本福音主義神学会の設立式に、一番若い世代の一人として、恩師渡邉公平先生と連れ立って参加しました。あの時の出席者で、現役の会員は、今や幾人おられるでしょうか。
年月の流れの中ですべてを忘れ去る可能性が高い私たちの状況の中で、今回の記念号を企画実行なさる、本誌の編集担当の方々に敬意を払います。
 
(2)1986年4月東京から沖縄、東部部会から西部部会へ
 日本福音主義神学会の一員としての歩みは、大きく二分できます。
1986年4月東京から沖縄への移住を境に、それ以前・ビフォ−とそれ以後・アフタ−です。
生まれ育った東京から沖縄への移住後25年、西部部会の「主のしもべ仲間」(黙示録22章7,8節)と主にある交わりを深める楽しい恵みの経験を重ねて来ました、感謝。
 
[2]1970年年-1988年、関東部会(1)説教者としての自覚と実践
1958年、日本クリスチャン・カレッヂ1年生の秋、アメリカからのジーンズ宣教師とカナダからのプライス宣教師、両婦人宣教師が埼玉県寄居で開拓伝道を開始した第一歩から、私はお手伝。生まれたばかりの寄居キリスト福音教会で毎週主日礼拝説教を担当、十代の説教者の卵の誕生です。その時からカレッヂでの3年半、二人の婦人宣教師の深い祈りに支えられ説教を継続し、小さな主にある群れが成長する中で私自身も育てられ、カレッヂ卒業後、寄居キリスト福音教会の初代の牧師に招かれ着任しました。
小さな交わりは、みことばを中心とする素朴なもので、危なっかしい初陣の説教を深い祈りをもって毎週聞き続けてくださいました。この50年余の年月を貫いて、今も、最初の説教を覚えていると折に触れ私を励ましてくださるあの方この方がいます。
確かに、説教者また説教者の妻としての道の基盤は、1958年からの年月、あの寄居で主の一方的な恵みにより、主にある兄姉との堅い信頼の絆の中で据えられたのです。(宮村武夫著作1『愛の業としての説教』、ヨベル、2009、3〜4頁)。

1967年10月1日、4年間の留学中待ち続けてくれた寄居キリスト福音教会に、私は戻ることが出来ました。1965年4月12日に結婚式をあげた妻君代と生後2箇月の長男忍望と共に。迎える側も、迎えられる側も、ひたすら喜びに満たされた恵みの時でした。
 小さな群れは『月報』の発行など一つ一つの出来事を通し、主にある信頼関係をますます深めて行くさなか、思いを越えた事態に直面したのです。
青梅キリスト教会の後任牧師の必要が生じ、小さな日本新約教団常議会は牧師移動の苦渋の決断・選択をなし実行。当時、寄居に留まることを強く望んでいた君代個人の望みや4間待ち続けた方々の思いを越えて、1970年4月から、青梅キリスト教会牧師また前年に設立されたもみの木幼児園園長として、私は歩み出したのです。

(2)『礼拝の生活』
 1970年は、埼玉の寄居から都下の青梅へ私ども家族が移住した年であり、私の青梅キリスト教会牧師としての歩みと日本福音主義神学会の一員としてのそれとは、こうして時期的にまったく重なります。

①礼拝と生活ではなく、礼拝の生活
青梅キリスト教会移住直後から、複数の人々の協力で、毎週謄写版印刷の『礼拝の生活』を原則として毎週発行。礼拝と生活の二本建てではない。礼拝しつつの生活、生活のただなかでの礼拝、まさに礼拝の生活だと確認しつつ、1970年から1986年にいたる営みでした。

②東京キリスト教短期大学、東京基督神学校日本女子大学
 1969年4月から東京キリスト教短期大学で、続いて1972年から東京基督神学校で、さらに1978年から日本女子大学で授業を担当するようになりました。
すべての授業・講義を、神のことばの説教者として担当してきた事実を今にして覚えるのです。二足の草鞋(わらじ)を履くのではない。教会の講壇で説教しないことを、教室の教壇で語ることはないと公言してきました。
ですから、『礼拝の生活』では、青梅キリスト教会での説教と直接結びつく文章を書き続けたばかりではなく、神学校と大学での講義の内容も直接または間接に記述しました。
また「説教がより整えられることを目的とし、説教の充実を目ざす実践的目的のために書」いた、そば屋のてんぷら的論文(「そば屋のてんぷら、アルファとオメガ」宮村武夫著作5『神から人へ・人から神へ』、ヨベル、2010)をはじめ幾つかの著作を含め著述一切の種は、『礼拝の生活』の畑に蒔かれたものであり、それなりの収穫なのです。

(3)「・・・つつの恵み」
1970年代と80年代、東京キリスト教短期大学で聖書解釈の授業を担当していた際、毎年授業で紹介してきた文章があります。他の二つの神学校でも、同様に紹介しました。
 それは、『キリスト教綱要』の序文・「ジャン・カルヴァンより読者の皆さんに」の最後で、カルヴァン(1509〜1564)がアウグステイヌス(354〜430)の書簡から引用している、以下の文章です。
  「わたしは進歩しつつ書き
   書きつつ進歩する人の一人であることを告白する」。
ここに、「・・・つつ」の恵みの実例とその実践の継承を見ます。
あのアウグスティヌスにして、一度にすべてではない。唯一つの道、それは「・・・つつ」の道であると教えられます。
私どもとカルヴァンの間に横たわる世紀の隔たりに倍するほどの時の隔たりを越えて、カルヴァンアウグスティヌスに少しも気後れすることなく、今、ここで「・・・つつ」の道をひたすらに歩むのです。今16世紀に生きる責任と特権は、あの偉大なアウグスティヌスではなく、この小さき私・カルヴァンに委ねられた使命である恵みの事実に心満たされながら。
 そして今、21世紀に生きる苦しみと喜びは、あのアウグスティヌスでも、カルヴァンでもなく、なんと、なんとこの小さき私たちそれぞれに委ねられている、神のユ−モア!

(4)日本女子大学での授業
教会でも神学校でもない、普通の場で聖書を語り続ける喜び、その事実の意味深さについて深まる確信。思えば、日本女子大学の授業が一つの原点です。渡邉公平先生の定年ご退職後を引き継ぐ形で、日本女子大学英文科の講座『聖書』を、1978年4月より担当。聖書そのものを率直に伝達すれば、彼女たちは「尊いアダム・エバ・人間」であすから、確かにしっかり受け止め応答してくれる、毎回試験答案を読むのがなんとも喜びでした。

当時英文科の教授であった新井明先生は、以下のように記してくださっています。
「・・・それまでは英文学科の渡邊清子教授のご夫君にあたる渡邊公平牧師がその科目の担当者であられた。同牧師が定年でお辞めになるに及んで、・・・そのときに公平牧師先生の愛弟子のお方が来てくださることになったと聞いた。そのお方が宮村武夫先生であった。よかった! と思ったことであった。・・・先生は生き生きとした授業をしてくださり、学生たちに深い影響をとどめた。(学生たちの様子から、それが分かった。)ことばとしての欽定英訳聖書の面白さは当然として、それがもつ迫力を若い世代に訴えてくださった。その結果、やがては教会に通う身となる若者たちが生まれてきた。その講義は一九八五年度までつづけられた。学園にとっては恵まれた八年であった。」(宮村武夫著作6『主よ、汝の十字架をわれ恥ずまじ』巻頭言)。
 学生方の幾人かとは、今でも幸な交流を続けています、その一人の姉妹のことば。
「英文科の授業を、教育学科の私は、単位とは無関係に2年間伺いました。
先生のお話は緻密で丁寧でした。第一コリント12章の箇所で、『あの人の目にとても惹かれたという話は聞きますが、耳に惹かれたということは聞いたことがありません。』という先生の真面目な冗談に、学生たちが遠慮がちに笑っていました。
友人の一人が「先生が、『本当に神様がいる』と思っておられることは感じる」と言っていたこともあります。・・・
宮村先生と私たちの聖研の交流は、先生が女子大をお辞めになられてから現在までもずっと続いています。」

[3]1986年〜2010年1986年4月、それまでの教会や神学校と大学での役割を後にして、当時数年間無牧が続いていた首里福音教会の牧師となるため、私どもの家族は沖縄へ移住。生活全般にわたり大きな変化を経験し、住居など制約の厳しい状況下での営みを味わいました。
そうした中で、東部部会から西部部会への移動が実り豊かなものとなった背景に、お二人の方との出会いがありました。

(1)関西部会のお二人
①神戸ル−テル神学校の鍋谷先生
 神戸ル−テル神学校の鍋谷先生が、そのままでは孤立しかねない状況の私を、関西に呼び出してくださったのです。
その方法は、実に善意と創意に満ちたもので、部会での講演だけでなく、神戸ル−テル神学校と神戸改革派神学校との合同授業を計画、集中講義担当の機会を提供。しかもそれまで私が書いてきたものをご自身で検討、講義の内容にまで行き届いた示唆を与えて下さいました。こうして関西までの往復の経済的必要も満たされました。
実に深い励ましでした。私なりに西部部会と沖縄の架け橋になりたいと心定め実行した源泉でした。現在沖縄在住の西部会員は8名、鍋谷先生の好意の一つの結実と理解します。

②神戸改革派神学校の牧田先生
 沖縄に移住して3年ほど経過した頃、神戸改革派神学校の牧田先生が卒業生の門安を兼ねご奉仕のため沖縄を訪問。卒業生の村山牧師とは、短期間の間に交わりを深めており、牧田先生を私にご紹介くださいました。
そこで沖縄の北部・山原へ一周5、6時間のドライブにお二人を誘ったのです。
「沖縄での先生との出会いを深く主に感謝いたします。」と牧田先生もお書きくださいました。車中での沖縄以外では普通考えられない長時間の対話において、生きた神学的思索の展開、恵みの出来事が現実となったのです。二人の関心が実に深く重なり合い神学をめぐる語り合いは、ことのほか楽しく有意義でした。
沖縄聖書神学校で1987年から1995年まで私は新約関係担当。引き続き、1996年から2006年まで組織神学を担当する際、牧田先生は、ゴードンでの恩師ロジャー・ニコル先生(当時80歳代でフロリダの改革派神学校客員教授)と同様、相談にのってくださり、お二人とも私の新しい営みをとても喜んでくださいました。
 牧田先生との対話、その目に見える形での結晶が、『宣教・説教と組織神学』(『愛の業としての説教』)なのです。

(2)二つの課題
 1986年月からの沖縄での神学的歩みを、あえて二つの課題に絞り報告します。

①沖縄で聖書・聖書で沖縄
 聖書を読む。これは主イエスに従う私たちの歩みにおいて最も基本的な必要条件です。
しかし十分条件ではない。この一事を沖縄移住前後から次第に明確に意識するようになっていました。一人の牧会者、キリスト者、人間として聖書を読む。聖書に何がどのように書かれているか著者の意図を探り、聖書のメッセージに従い生きながら伝えて行く。
それだけで十分なのだと自己満足に陥ってはいけない。もう一歩前進する必要を自覚しやがて痛感し始めていたのです。
聖書に何がいかに、何故書かれているのかを知り受け止めるのは、それをもって、宗教改革者の一人が明言するように、自分が生きている現実、いや生かされている現実を読む、私の場合なら聖書で「沖縄を読む」ため。この営みを継続することこそ、沖縄で聖書を真に読み、神学の営みをなし続けることだと心に刻むようになりました。

 たとえば、1996年9月8日発行の『首里福音』(青梅の『礼拝の生活』と同じ役割を首里福音教会で目指す)480号に、以下のように「台風の受け止め方−伊江島中高生キャンプ継続の中で台風の神学への一歩−」を書きました。
 「……、伊江島中高生キャンプが台風12号の影響で8月15日(木)〜17日(土)に延期されたことをめぐり、幾つかのことを考えさせられ学びました。以前青梅キリスト教会でもみの木幼児園の運動会と雨の関係で直面した事実と重なります。しかしさらに沖縄では台風(石島英,『台風学のすすめ』,副題「沖縄からみた,台風自然と風土」)とのかかわりでどのように歩むべきか、より連続性のある年ごとの課題です。……
 実は、『台風学のすすめ』の著者石島英先生に感謝の意を現したく著者紹介の欄に載せられていた現住所に、以下の手紙を差し上げました。
『……先週の主日礼拝において、貴書『台風学のすすめに』に言及、紹介……
天と地の創造者を信じる者として、沖縄で台風をどのように理解し日常生活で受けとめるかの課題について、貴重な基礎的、実証的知識を与えてくださり感謝いたします。感謝のしるしとして、以前幼児教育の責任を持っていた頃、雨の日の運動会をめぐり書いた一文を含む拙編書(『存在の喜び』)を同封します。……』
ところが、琉球大学の石島先生から、お忙しい中、以下のお便りを頂きました。 
『……御書『存在の喜び』をいただき感謝しております。……牧師をされつつ幼児園の責任者としても永く尽くされた御経験の上に書かれたようで、宮村さんの人間論,教育論が伝わってくるのを感じます。
 拙書『台風学のすすめ』を読まれ、ご利用下さり有難うございました。台風を沖縄特有の自然環境の一つとして真剣に位置づけてみたいと思い取り組んでみました。当本が御目にとまり御紹介いただいたこと光栄に存じます。……』
 
このお便りを頂き台風についてさらに考えを重ねている中で、F.B.マイアー原著、小畑進編著『きょうの祈り』の9月5日付け、ナホム1章3節、『主の道はつむじ風とあらしの中にある』を引用した祈りに導かれ同じことばで祈りました。
『万軍の主なる神さま。
 嵐は乾いた大地と人々に待望の水をたっぷりともたらし,木々からは不要、無用の枝葉を取り去り、季節を移り変わらせます。
 嵐は一見恐ろしく、災難のかたまりのように見えながら、その反面他のまねすることのできない役割を果たしているのです。
 ナホムは、復讐の神、怒りの神、憤りの神を人々に指し示した雄偉(ゆうい)な預言者ですが、彼は、主は怒られるが怒るのに遅いお方、それもつむじ風と嵐の中にも道を用意しておられるお方と、誤つことなく神を見ていました。……』
 
この祈りは,台風の神学に大切な方向を指し示し、ナホム書の学びを促すものです。
 実は、四国香川県の小畑先生からお便りを頂いたばかりでした。
『……渕上先生は心より敬愛し、お世話になりっぱなしです。
 週報、『首里福音』で御教会のことを伺い……伊江島は、戦争の惨劇のあとかたもなく、なんと主僕高校の候補地ですか! 五十一年たったのですね。
 当方、たった独りという重圧でおしつぶされそうですが、両目の手術を終えて、よく見え……今度は危険も少なく、自転車をのりまわして、未踏の奥地まで入りこんでいます。……ただ無用な活動でなく、結実を,結実を,と願っています。……』
沖縄の地での台風の神学は、各地にあってそれぞれの持ち場・立場で主なる神の恵みに応答すべく歩みを重ねている方々との主にある連帯の中で進められます。

上記のお便りは、こちらからの以下の手紙に対する間髪を入れない返信でした。
『……三月には、懐かしいお葉書を頂きました。直ちに返事を書くことができず失礼しました。J.B.フィリプスが彼の自伝、『聖書翻訳者の成功と挫折』の中で明らかにしている病との、……それなりの戦いの中でした。
小畑先生が,四国の地で「激忙」の生活を送られている様子が目に浮かぶようです。四月に、丸亀聖書教会の渕上先生にお会いした際、小畑先生から電話を頂くのが楽しみと話しておられました。小畑先生の激忙の内容が、一人ひとりに対する深いご配慮に根差すものであると教えられます。
 私ども沖縄で十一度目の夏を迎えたことになります。この数年来伊江島について祈らされ、考えさせられております。その小さな一歩として、伊江島でテントを張って聖書キャンプを継続しています。
 高校生時代主イエスとの出会いを経験し、主にある交わりを継続、さらにその広がりを味わうことを許された者として、中高生に主イエスの福音を伝えたいとの願いです。地域の牧師たちと一つ心になって働くことができる事を感謝しています。……』

8月15〜17日に延期した1996年度の伊江島中高生キャンプに参加して、驚きました。
豪雪を思わせる一帯に積もる、浜辺から吹き寄せられた砂の量です。ダンプカーを先頭に懸命な清掃がなされる中、いつもに増してさっぱりとした海水の美しさに気がつきました。沖縄生まれの牧師の話しでは、サンゴの白化現象を防ぐ台風による海水のかき回しは、台風がもたらす幾つもの恵みのうちでも貴重な一つとのこと。
台風の神学は伊江島の現場で進められるべきと覚悟せざるを得ません。
そしてその基盤は、1910年生れの恩師渡邊公平が不自由な指先でお打ちになったワープロの手紙と共にお送りくださった、『現代に生きるクリスチャン—カルウァンの思考に従って—』にある事実を感謝します。
『敬愛する友、宮村先生。
 ……けれども幸い調度ここに一冊の書(むしろパンフレットと言った方 がいいかもしれません)……がありますので、送らせて頂きます。実は長年の成果として神の『三一論性』に従っての啓示理解の『方法論』を打ち立てる試みをしたまでのことで恥ずかしいものです。お側に置いてくだされば幸いです。……』」

②沖縄基督公会の夢
2000年に開かれた沖縄宣教・伝道会議の準備段階で、新約聖書に見るコリント教会やガラテヤ教会などと見合うのは、沖縄の地域の全体教会「沖縄の教会」The United Church of Christ in Okinawaであると書く機会がありました。
その基盤として、貴重で小さな書、John Knox、The Early Church And The Coming Great Church(Epworth,1957)を紹介しました。
さらに使徒信條に導かれ「聖なるあまねき公会」を信じ告白する者として、1872年3月10日に設立された横浜公会に学び、教会という名称ではなく、どこまでも公同性を求め公会的センスの確立を期待し沖縄基督公会の名称はいかがかとドンキホーテ的提唱をしたのです。
 ところがこの提唱の主旨を、その後思わぬ経過で講演し出版する道が導かれたのです。
 2008年1月6日、栃木県宇都宮市カトリック松が峰教会聖堂で開かれたキリスト教一致共同祈り会で、宇都宮キリスト集会牧師として、「ビブリカル・聖書的エキメニズムの提唱」(宮村武夫著作Ⅰ『愛のわざとしての説教』、なお同書『宇都宮キリスト集会と私」参照)を語ることが出来ました。
この夢は、あらゆる人間的な壁を突き抜ける聖霊ご自身の導きを受け、聖書に徹底的に聴従する聖書的エキメニズムにより実現すると判断し確信し続けています。徹底的な聖霊信仰、聖書信仰です。

(3)先輩説教者との出会い
 沖縄での神学的営みは、それなりの課題をめぐるものです。しかし何よりも人と人とのの出会いが中核で、少なくない方々との主にある恵みの出会いを与えられ感謝です。
その中で、先輩説教者お二人、いや三人との出会いは特に忘れがたいものです。

①金城重明先生
2010年8月9日午前中、通所リハビリ施設つばさでリハビリ中に、沖縄戦の真実の証人・金城重明先生から携帯へ電話がありました。午後2時からNHK教育テレビ「こころの時代」の番組で、金城先生の対話・「人は希望によって生きる」の再放送があるとの連絡。
 最初の放送の時は、私一人で見ました。2009年12月13日NHK教育テレビの「こころの時代」の時間で、12月18日に脳梗塞発症・入院の直前でした。
 最初の放送の翌日12月14日(月)那覇中央教会朝祷会で語ったのが、私にとり脳梗塞発症前最後の説教でした。
 那覇中央教会の朝祷会は、金城先生との交わりにおいて特別な意味がある場です。
最初に朝祷会で説教した際、司会の金城先生が、「宮村先生は、沖縄の教会の宝です」と紹介なさったのです。いくらなんでもと耳を疑いました。
 しかし金城先生の心は、私のような者に見る生き方と切り離さない徹底した聖書信仰で、それなくして沖縄での教会形成はありえないとの主旨でした。
 金城先生ご自身が十代の時、極限状態の渡嘉敷で、南洋群島から引き揚げてこられた棚原俊夫さんから、「この本を読んでごらん」と差し出された聖書。その聖書に引き込まれるように読んでゆく。その後の先生の生活・生涯のすべては、この聖書との出会いが基盤で、聖書を通しての聖霊ご自身の導きによるのです。
「聖書のみにすがって生きる」(『本のひろば』2010年6月号、佐藤全弘師書評)者として、私なりに金城先生からバトンタッチをしっかりと受け止めたいと切望するのです。
再放送の時は、君代と一緒に見ることが出来、番組を見終わった直後、金城先生に深謝の電話をいたしました。

②蓮見和男・幸恵ご夫妻
 蓮見ご夫妻との出会いは、2003年4月24日〜29日、J.モルトマン先生が沖縄を訪問された際、ご夫妻がご一緒に同行なさったときのことでした。
通訳の労で多忙な蓮見和男先生。しかし幸恵先生は、比較的ゆとりがあるご様子。ごく自然な流れで声をお掛けしたのに、間もなく話しが弾み、先生が日本女子大のご卒業生(英文科と思ったのに実は家政科)であることや、ある期間『聖書』の授業を私が女子大で担当したことなど話題が大いに展開したのです。
 そうした中で、幸恵先生が女子大の聖書研究会やその卒業生会のことをご存知ないと知りました。失礼を省みずに言えば、「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある」(ローマ11章4節)状況の中で、「私だけが残されました」(ローマ11章3節)と訴えるエリヤの姿を連想したのです。
 そこで、聖書研究会のOG会の存在を、あたかも自分がそのメンバーであるかのように心を熱くしてお伝えし、また新井明先生の著書、『ユリノキの木陰で』(日本女子大学英文科、2000)と『湘南雑記――英学徒の随想』(リーベル出版、2001)をお貸ししたところ、
幸恵先生は、滞在中のホテルで、これらに目を通してくださいました。
 他方、蓮見幸恵先生について、このように優れたOGの神学者が現に活躍なさっているとM姉を通し聖書研究会のOG会にお伝えしました。
ですから幸恵先生から、「過日女子大聖研のOG会の方からお便りをいただきました」と連絡を受けた時には、とても嬉しくなりました。
 青函トンネル工事で、北海道側からと青森側から掘り進めたトンネルが一つになった瞬間の喜びに比すべきもの、オーバーに言えばそうです。

 蓮見和男先生との出会いは、モルトマン博士招聘委員会編、『人類に希望はあるか』(新教出版社)が糸口でした。同書を沖縄キリスト教書店で目にし、拾い読みしていると聖公会の会館での講演会『平和の建設と龍の殺害―キリスト教における神と暴力』のことを蓮見先生が記しておられる文章が目に止まりました。講演会の質疑において、質問はすぐに同時通訳しドイツ語で伝えるが、モルトマン先生の回答を日本語に通訳することは体力的に疲れるので、モルトマン先生の回答は英語で、それを日本語に通訳する段取り。ところが英語の通訳者の都合でピンチヒッターと選ばれた宮村が、「すばやい、しかも的確な通訳」(同書、95頁)をしたと英語力について言及。
 さっそく手紙を差し上げました。あれは英語力ではない。神学力によるのだと。
モルトマン先生と同様、私なりに聖書ですべてを見・読み続ける営みを求めてきたので、モルトマン先生の話の大意を、実際に耳で聞く前に心で受け止めており、耳で聞く際は細部に意を注いで通訳したのだと。
 この手紙が切っ掛けとなりその後便り・資料のやり取りが始まったのです。
さらにご夫妻を訪問のした際バックナンバーを受け取り、その後隔月に恵送して頂く、『ドイツ教会通信』の熟読は、至福の神学力養いの機会です。

(4)脳梗塞発症・100日の入院を基点に二つの広がり
2009年12月18日(金)、脳梗塞のため那覇市立病院に入院、明けて1月13日(水)リハビリに集中するため大浜第一病院へ移ってから100日の入院生活の日々、多くの方々の祈りと好意に支えられ、4月4日のイースターを前に、4月2日(金)退院できました。
この発症・入院の経験は、1963年から1967年のアメリカ・ニューイングランドへの留学に匹敵する深い学びのとき、しかも短期集中で楽しくて、楽しくて仕方がない毎日でした。

12月18日(金)夕方、ライフセンター那覇書店の仕事から帰ってきた妻君代は、様子が普通ではないのに気づき、一晩寝れば大丈夫と威張っていた私を、脅したり、賺したりして病院へ連れて行ってくれました。君代の母親は脳梗塞だったのです。
病院では、直ちに治療開始。しかし、一晩経過した時点で、左半身不随、丸太となってベッドに横たわっていました。
その時、「苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました」(詩篇119・67)との詩人の告白は、私の告白ともなりました。主の導きで大浜第一病院に移った後、日本クリスチャン・カレッヂで3年先輩であった宮谷宣史先生の新しい訳で、アウグスティヌスの『告白録』(教文館 上・1993、下・2007)をそろそろと読み始めました。
またそのどん底の状態の中で、からだをめぐる思索、医療従事者の方々との出会い、医療のあり方についての考察など貴重な経験の第一歩を踏み出せました。
病院では、一日3時間のリハビリの連続。日々、楽しみながらリハビリを続ける中で、私のうちに一つの事実が生じました。からだの奥から笑いが満ち溢れてくるのです。箸がころんでも笑う年頃の娘のあり様で、夜となく昼となく「ウフフ、ウフフ」なのです。脳梗塞のため、どこか緩んでしまったのではないかと君代が訝るほどでした。
そんな日々の中で、詩篇126編その1〜3節を読んでいるときに、「これだ!」と心に受けとめました。
「主がシオンの捕われ人を帰されたとき、
私たちは夢を見ている者のようであった。
そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、
私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。
そのとき、国々の間で、人々は言った。
『主は彼らのために大いなることをなされた。』
主は私たちのために大いなることをなされ、
私たちは喜んだ。」
リハビリの一つは、言語治療です。治療者の熱心な指導のもと舌の動きに集中しながら発声訓練。「舌、舌」と生涯でこれ程「舌」を意識した日々はありません。「私たちの舌は喜びの叫びで満たされた」とは文字通り私の実感なのです。
誤解を恐れないで言えば、脳梗塞後リハビリの経験は、小さな小さなスケ−ルでのバビロン捕囚からの解放であり、解き放ちの喜びを自らの存在の基底に覚えるのです。
 そうした日々の中で、二つの恵みの波紋が心のなかでの広がりました

①埼玉在住の文芸評論家・松本鶴雄
1960年代後半埼玉県寄居で出会った文芸評論家松本鶴雄さんと、入院中直接連絡が取れたのです。2009年11月に出版した、著作集Ⅰ『愛の業としての説教』(ヨベル)を送付していたところ、松本さんから電話、さらに丁寧な読書感想の便りを受け取りました。
電話では時空を越えて話が弾み、その後、交流の絆を体現する、松本さんの著書・『神の懲役人─椎名麟三 文学と思想』(菁柿堂)が遠く沖縄まで送付されて来ました。
私は応答として、松本さんを中心とする同人誌『修羅』に参加の手続きを取りました。
50年にわたり説教を続け、神学論文やエッセイなどの文学類型で書き発表してきました。しかし今回入院中に経験し思索した内容を表現するには、それに相応しい別の表現方法や場があるのではないか考え始めていたところでした。長い年月絶えることのなかった、松本さんとの交流に後押しされて、『修羅』61号に「アンヨをもって、テテもって」を投稿、71歳にして新しい小さな一歩です。

②人間・私・からだの三位一体的支え
脳梗塞発症後100日余の入院中、吉嶺作業療法士による入魂のリハビリの積み重ねで左手の指一本が発症後初めて1ミリ動いた瞬間、自分はからだ・からだとしての私を徹底的に自覚したのです。
同時に、からだ・人間・私は、まさに人格的存在。そして永遠の愛の交わりである三位一体なる神こそ、人格的存在人間・私の根源的な支えと確信は一段と深まりました。
「存在の喜び」(宮村武夫著作7『存在の喜び』)とは、徹頭徹尾からだである人格的存在としての人間・私に注がれ溢れる喜び。この「存在の喜び」を、不自由な左手・指や杖を用いて喜びカタツムリの歩みをなしながら、しみじみ味わい知りました。
そして喜びの応答です。永遠の愛の交わり・三位一体なる神こそ、まさに人格的存在である人間・私の根拠である事実を、ヨハネ福音書からの説教・宣教において展開できればと願い、入院中の読書会また退院直後の主日礼拝で小さい一歩を踏み出しました。
さらには、医療の現場や医学教育における、三位一体論的根拠付けを展開できないか思い巡らしを始めたのです。
たしかに自動車修理工場における故障車と総合病院における患者の間には、類似関係があります。故障車の各部品を冷静に客観的に検討しながら車全体の修理がなされ正常な車として回復する。病院における患者に対しても、同じく冷静さと客観性が求められるのは確かです。
 しかし同時に、自動車修理工場における故障車と総合病院における患者の間には、明確な区別性も、当然ながら認める必要が絶対あります。
ところが現実には、この当然なこと、絶対必要なことが軽視されたり、見失われたりしていないか。要の一つは、医学教育のあり方であり、この点は、私なりに見聞きし関わって来た神学教育に対する私の不安と不満に相通ずると判断しています。

現時点で二つの基盤を思い巡らしています。
A。からだの贖い、からだのよみがえりめぐる三焦
 以下の三つの箇所が代表する私たちの生身のからだとその贖い・復活を、正面から見定める地味な作業を心に期すのです。
①ロ−マ8章23節
「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」

②ピリピ3章20節
 「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」

使徒信條の頂点・まとめ
「……罪のよるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。アーメン。」

B。エイレナイオスに導かれて
対グノース主義(からだの軽視、無視、さらにからだに対する敵視)に焦点を合わせ、聖書全体から対応しているエイレナイオスの『異端駁論』に見る主張、この先達の正しく、深く豊かな神学的営みを掛け替えのない手引きとして。
  エイレナイオスの論敵は、Ⅰコリント15章50節「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。」(Ⅰコリント15章50節)を口実・根拠に主張します。「血肉のからだ」、つまり私たちのからだは神の国を相続できない、救いの対象ではない。それゆえからだをどのように用いても救いに関係ないと勝手気ままな生活・生涯に走ります。
 こうした 全体から孤立した聖句を口実に、物質を悪と見、からだを蔑視する考えをあたかも聖書の教えであるかのように主張し人々を惑わす論敵に対して、エイレナイオスは鋭く対決します。そうです。聖書を貫く三本の柱に注目し、エイレナイオスは聖書全体の雄大な展開を視野に入れながら、特定の聖句、たとえばⅠコリント15章50節の意味を深く豊かに汲み取ります。

聖書を貫く三本の柱
①天地の創造者と天地万物、創世記1章1節「初めに、神が天と地を創造した。」
 目に見えないものも見えるものも、その全体を創造者なる神が創造し、保持なさっているとエイレナイオスは強調。それゆえ目に見える万物の全体が、神の創造のみ業であり、また救済の歴史にその場を与えていると雄大な広がりに信仰の目を開くのです。

②御子イエス受肉の事実、真の神にして真の人
 ヨハネ1章14節「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」
 「子は受肉し、人となった時、人類の長い伝統を自分の中にまとめ、総括的に救いを私たちに与えた」(『異端駁論』三・18・1)。
 からだをふくむ人間の全体、その意味で真の人となられたのです。それはからだを含む私たちの全存在が救いに与るため。

③からだを含む全人格・全人間
 人間をからだと魂、霊を分離してしまうのではない。からだを含む全存在が、聖霊ご自身の導きのもとに導かれ、父なる神の意志を行い、キリストの新しさへと導かれる。

[4]集中と展開25年の沖縄での生活と西部部会での歩みを経て、結び・出発点に今立つと自覚。
25年の歩みを踏まえて、今何に集中するのか、これからどの方向を展望するのか。
集中 
日本センド派遣会理事会と相談、2011年4、5月に沖縄から東京へ移住を検討。

展開
①25年の沖縄での生活で出会った方々に祈り支えられて東京へ。深川に生まれた者として故郷東京下町を視野に入れ、千葉県市川市の聖望キリスト教会と宇都宮キリスト集会  に根差した、Ⅱテモテ4章2節の勧告への応答。
 聖望キリスト教会は、10余年前、開成中学1年時のクラスメイト大竹堅固君宅で家の教会として主日礼拝をスタート。最初から現在まで、年に4回主日礼拝と午後の集中的組織的聖書の味わい聖書味読会を私は担当。背後には大竹兄のご両親の戦前からの祈り。

②高校生時代キリスト信仰に導かれ、最初のキリスト証言の場だった母校。
同窓生の祈りの群れペン剣祈祷会に根差して母校関係者への宣教。

③西部部会から再度東部部会への道を求めて。