6月5日(火)ヨハネ14章の味い、その21 午後3時訪問リハビリPTの訓練、手書きの手紙書きを中心に読み書き、電話

6月5日(火)ヨハネ14章の味い、その21
午後3時訪問リハビリPTの訓練、手書きの手紙書きを中心に読み書き、電話

https://youtu.be/mUBZG2jGKwE
    ヨハネ14:24

三重大学中川正先生との出会いと主にある今後へ期待

三重大学中川正先生との出会いと主にある今後へ期待

 今年2018年、小岩栄光キリスト教会新年聖会で、 講師の三重大学中川正先生と、主にある出会いの機会を与えられました。
 講演を通して教えられるばかりでなく、限られた時間も個人的な話し合いは、共鳴・共感の時でした。
その後、著作や論考などの交換を含む文通を通して、中川先生の専門である地理学の課題を含め、クリスチャントゥデイに連載の執筆を頂く準備を慎重に進めています。
 
 クリスチャントゥデイ3人体制で意気軒昂に進む中で、一人一人と、執筆者が加えられつつあり励まされます。組織でも経済・富でもなく、主にある志(ピリピ2:13)のリンクです、感謝。
「宮村武夫先生

主の素晴らしい御名をほめたたえます。
このたびは、「喜びカタツムリ便り」をご恵贈いただき、ありがとうございました。先生と、小岩栄光キリスト教会でお会いし、お交わりをさせていただいたこと、とても光栄でございました。短い時間ではありましたが、私にとって、インパクトの強い時でした。

先生の著作集も読ませていただき、大変感銘を受けました。特に「時代や場所の相違を越えて聖書にともに聞く、この共通の基盤に立ち、真の交わり、対話が成り立つのである。・・・ この交わりは、単に時代的隔たりを越えるばかりではない。同時代においても、地理的、教派的隔たりなど、種々様々な隔たりを越えて、実に豊かに広がり深まり行く可能性がある。」との論述は、とても深く心に染み入りました。時空間を超えたみことばの力を改めて実感させていただきました。
先生の書かれたものを、これからも、ウェブ等を通して吸収していきたいと思っております。今後ともご指導のほどよろしくお願いします。」

★以前、以下の文を書いております。

「 聖書に学ぶ地理的センス
日本福音キリスト教会連合の交わりの中でー」
[1]序.
 新しい主にある交わり,直接には沖縄地区にある六つの教会の一つに属し生かされている中から,小さなご報告をいたします.
 聖書が時,時間,歴史を大切にしていることは明らかです.ですから聖書を読みつつ生き,生活・生涯を通して聖書を読む恵みを与えられている私たちが歴史的(時,時間)的センスを身に着けて行くのは自然なことです.そして歴史的センスと言うとき,時や時代と共に,場所や地理的センスを当然含みます.
 地理的センスにこだわるのは,個人的な経験とも関係するかもしれません.最初に仕えることを許された教会は関東平野の北西の端,次の教会は東京の西の端に所在.そして首里福音教会.沖縄は日本の南の端だと位置ずけられます(首里福音教会の講壇中央にある十字架の下にある地球儀はそんなこと少しも示していませんが).

[2]聖書に見る地理的センス,神のみ旨・計画における「島々」. 沖縄の諸教会にとって,離島伝道は教会のあり方そのものに深くかかわると自覚し,家庭集会の一つではイザヤ書を読み進めながら離島の一つ伊江島宣教のため祈り続けています.離島伝道に目を据えて見通す限り,沖縄宣教は戦後後退しています.
(1)聖書に見る,「島々」.
 イザヤ書後半に繰り返し言及される,島々.
 イザヤ42章10,12節など,メシヤ預言の中で「島々」について言及している意味.
 初代教会の福音宣教,教会形成における,「島々」の位置.
☆クレテ島.テトスの手紙1章5節(一つの島に複数の教会,その一致と協力),1章12節(島の歴史文化の徹底した学び),3章12節から15節(人と手紙による生き生きとした交流).
キプロス島使徒の働き11章19,20,21節(海を越え,文化人種の壁を越える福音の広がり,国外宣教の原点).
 教会の歴史における,島々の役割.
☆中世ヨーロッパ宣教におけるアイスランドの役割.
カトリック教会の沖縄宣教.まず奄美大島,そして沖縄へ(安齊伸著,『南島におけるキリスト教の受容』,第一書房).
 島国日本などとはは,今日ほとんど言われないし,その意識も薄いのではないか.これはやはり危険なことではないでしょうか.

[3]ヨハネの黙示録に見る視点.
 聖書に見る「島」と言えば,ヨハネが「神のことばとあかしとのゆえに」(ヨハネの黙示1章9節),流刑の地として礼拝の生活をおくったパトモスを見逃すことができません.
(1)南北約16キロ,東西9キロのパトモスにあって,ヨハネは,主イエス・キリストの主権(参照1:8,21:6,22:13参照)について,徹底的に教えられます.

(2)「御霊に感じ」
 ヨハネ聖霊ご自身の導きにより,パトモスにいて小アジアの七つの教会それぞれの個性と戦いを見分け,同時に一つの地域にある七つの教会を全体として一つの教会のように見,ヨハネはそれぞれの教会に手紙を書くのです.
 しかしそれだけではありません.「御霊に感じ」て,天からすべてを見る視点と視野を与えられます(黙示録4:1,2参照).
 さらにヨハネ聖霊ご自身の導きにより,荒野の教会の姿,つまり戦闘の教会のあり方を悟り(黙示録17:3以下参照),同時に勝利の教会についての洞察します(黙示録21:10以下参照). 聖霊ご自身の導かれ,ヨハネは主イエス・キリストについて徹底した信仰の告白へ導かれ,キリストのからだである教会の豊かさについて理解を与えられます.
 私たちも,基本的に同じ道を進むべきです.日本福音キリスト教会連合の設立の段階で確認された「カリスマ問題に関する合意事項」は,私たちが聖霊ご自身に対して消極的態度を持つことを意味しない.聖書に従い聖霊ご自身についてどれ程強調しても強調し過ぎることはないのです.しかしそれが,パウロが大事なこととする新しい創造(ガラテヤ6:15参照)の視座,つまり創造論,キリスト論,教会論などとの有機的なそして雄大なかかわりからなされていないなら,聖書の教えとは似て否なるものとなる危険があります.

[4]日本福音キリスト教会連合の交わりの中で,沖縄から.
 日本福音キリスト教会連合の歩みにおいて,鍵の一つは地区と地区の生き生きとした交流にあると確信します.それぞれ自立した地域教会がその地域全体としては一つの教会として見られるような真の交わりを保ちつつ,他のそうした地区と交流を持つ.そんな願いを心に持ちながら一つの提唱をさせていただきます.
(1)過去の恵みを覚えて.
 旧日本新約教団で持たれた沖縄聖会(1984年5月,1985年5月,1986年5月)が本土と沖縄の双方の教会にとりいかに祝福に満ちたものであったかますます明らかになっています. 過去5年の協力伝道,本土の教会から講師を招き,6つの姉妹教会を連続して訪問,特別集会.沖縄の6つの教会ばかりでなく,講師を送ってくださった教会にとっても祝福.

(2).将来の導きを待ち望みつつ.
 今,過去の恵みを新たに思い起こし,主にあって将来を展望する必要を感じます.
 首都圏の地域と沖縄地区の交わり.30名の方々を首都圏から沖縄地区の宣教大会に.コースを二つに分ける可能性,
(イ)沖縄の歴史,宗教,地理から世界宣教について考える

(ロ)沖縄の自然から環境問題,農業問題,障害児について考える 北海道地区と沖縄地区の交わり,二コース,30名の方々.

北海道と沖縄から,日本の宣教と海外宣教を考える
(イ)北海道における宣教と教会形成から,北方圏での宣教と教会形成を考える.特に,センド国際宣教団のアラスカ伝道(セントラル・アラスカ宣教団の50年以上の働き)の歴史から学び,将来の協力を考える.例えば,エスキモーの方々への宣教.

(ロ)沖縄における宣教と教会形成から,南方圏での宣教と教会形成を考える.特にリーベンツェラーの南方での長い伝道の歴史,センドのフィリッピン,台湾での伝道の歴史から学び,将来の協力を考える.例えば,各宣教団を通して形成された教会のアジア教会会議(将来は世界教会会議への発展を目指し)の形成. 
 四国地区から,沖縄地区宣教大会に30名の方々.
 両地区での宣教と教会形成,地域から地域への宣教活動について.(イ)四国地域から中国地域への宣教の広がりの歴史と将来の展望について学ぶコース.
 沖縄地域から九州の他の地域への宣教の広がりのについて.その基本的の姿勢と具体的な方法を考える.
 最後に使徒の働き1章8節を(クリスチャン新聞,1989年3月26日号,「復活,聖霊,教会」を参照くだされば幸いです).

「旧約聖書と私」、今クリスチャントゥデイにおいても 再録 

旧約聖書と私」、今クリスチャントゥデイにおいても 再録 

  この主題をめぐり、二つの経験を報告させて頂きます。
 一つは、1970年4月から1986年3月まで、その一員として歩みをなすことを許された、青梅キリスト教会での経験で、毎週水曜日の聖書研究会・祈祷会において、モーセ五書の一章ずつを読み続けたのです。申命記の終わりに至ると創世記の始めに戻り、新しく読み始める方法を取りました。平凡に見える一地域教会の営みにも、十数年の間には、それなりの山あり谷ありと言い表したい事態に直面する中で、とにかく毎週モーセ五書を読み続け得たる事実は、小さくない恵みでした。

この経験を通して、群れの各自にとって旧約聖書がより親しみやすいものになったと判断します。少なくとも私にとっては、そうでした。
それと同時に、旧約聖書を前にして、互いの旧約聖書についての知識の欠如を痛感し、旧約聖書を専門的に研究する方々の労を感謝しました。また小さな群れであっても、将来子供達の中から、地域教会にあって生き続ける人々の生活を意識し続けながら、旧約聖書を徹底的に学ぶ者が起こされるように、何回か皆で共に祈りました。
 
もう一つのことは、1978年4月から1986年3月まで、日本女子大学の英文科の学生(他の学科のキリスト者や道を求める方々を含め)学生を対象として、そのものずばり『聖書』と呼ばれる講座を、恩師渡邊公平先生の定年退職後、担当した経験です。
週に2時間弱の時間を用い、前記には旧約聖書、後期には新約聖書、一年の間に創世記からヨハネの黙示録までを大きく見て、何が、いかに書かれているか聖書の構造を伝えることを目指しました。さらに何故著者は、この内容を、このように表現しているのか、著者の意図・メッセージ・神学を探り提示する営みを重ねたのです。

 聖書の主題とその展開を求めて、学生の方々と聖書を読み進めて行く時、モーセ五書が聖書の土台であるとますます強く感じ、モーセ五書、さらには、創世記、特にその一章から三章までが、聖書全体の出発点、土台として大切だと強調せざるを得ませんでした。
 創世記一、二、三章において、何がいかに書かれているのか。
何がと言えば、神、宇宙、人間とその視野の大きさ、豊かさに圧倒されます。
いかにと言えば、その複合的視点が印象的です。
三章が出発点ではなく、その前に一、二が位置している事実の持つ意味。
本来の人間(創造)、
現実の人間(罪)、
希望の人間(救い)と複合的視点から人間の姿を描き、本来の人間、人間らしい人間への希望の道を示している。このように見て、真の人となられた真の神、主イエス・キリストこそ、聖書の中心である事実を伝達したいと心を熱く熱くし、時に応じて手ごたえを覚えたのです。

地域教会出の営みやユニバース・宇宙を視野にするユニバーシティ・大学での経験に根差しながら、今、インターネット新聞・クリスチャントゥデイを恵の手段として与えられています。この恵みの場で、「聖書をメガネに」、どんなに小さく見えるものも小さ過ぎることはない、どんな大きく見えるものも大き過ぎることはないと確信しつつ、新しい年も恵みに応答したいのです。

高校卒業前後、松山での開拓伝道のお手伝いに従事しているとき、万代恒雄先生に指摘されました。「宮村君は、人が良く甘いから、最後にとどめを刺すとき、躊躇する。戦場では、敵のとどめを刺さなければ、とどめを刺されるのだ」。そうです。みことばの剣をもって、真の敵を見違えることなく刺す文章を紡ぐ覚悟を新たにしています。旧約聖書を読みながら。

  ピリピ2章1-18節の味わい その1 

  ピリピ2章1-18節の味わい その1


     「キリスト・イエスのうちにも見られるもの」  

                        ピリピ2章1-5節

[1] 序.
2章1節以下を味わう際,1章29節を一つの鍵として注目.直後の30節に見るように,パウロ自身が「キリストのための苦しみを賜った」者として,神の恵みを無駄にせず(参照Ⅰコリント15章10節),信仰の良き戦いを戦っている様はピリピ教会の人々は熟知..そればかりでなく,ピリピ教会の人々も現に「同じ戦いを経験しているのです」.2章1節に,「こういうわけですから」とあるように,2章1節以下は,この1章29,30節の基盤の上に展開.

[2]「キリストにあって」,ピリピ教会存在の根本

(1)「キリストにあって」,1節
①「励まし」

 ②「愛の慰め」

 ③「御霊の交わり」

 ④「愛情とあわれみ」

 この確かな基盤の上に.

(2)一致の勧め,2節.ことばを重ねて一致を強調.
①「一致を保ち」

 ②「同じ愛の心を持ち」

 ③「心を合わせ」

 ④「志を一つにし」

(3)キリストにある一致に生かされる者として,3,4節.
①・・・しないこと.

  何事でも自己中心や虚栄からしない.

  自分のことだけ顧みることをしない. 

 ②・・・すること.
へりくだる.互いに人を自分よりすぐれた者と思う.

  他の人のことも顧みる.

[3]「キリスト・イエスのうちにも」,5節.

 主イエス・キリストに集中.

 主イエスが何をなされたか,受肉と十字架を中心に.

 主イエスが何を話されたかについて,来年マタイの福音書を通して.

[4]結び
キリスト者・教会は,「キリストにある」存在,主イエス・キリストご自身に心を集中することを通して,心,生活,生涯,家庭が実際的に「キリストにある」ものとして整えられて行く.

           

         

ピリピ2章1-18節の味わい その2 「仕える者の姿」                         ピリピ2章6-11(Ⅰ)

  ピリピ2章1-18節の味わい その2

「仕える者の姿」  

                      ピリピ2章6-11(Ⅰ)

[1] 序.
ピリピ2章6-11節を3回.

①ピリピ2章6-11(Ⅰ) 「仕える者の姿』

②ピリピ2章6-11(Ⅱ)「十字架の死までも」

③ピリピ2章6-11(Ⅲ) 「イエス・キリストは主」

 一回目は,6,7節に描かれている主イエスの姿に心を集中したいのです.

[2]「キリストは,神の御姿であられる方」
 主イエスは,「神の御姿である方」として,「神のあり方」を捨てられ,受肉と十字架の道を選ばれた事実をまず明示しています.

 ここでは,主イエスの誕生・受肉以前について.「先在のキリスト」と呼ばれます.あのナザレのイエスは,受肉前に存在なさったお方,つまり神性の宣言です.この驚くべき事実は,新約聖書に一貫して前提(あたりまえのこと)とされていますが,特にヨハネ福音書において明白に宣言されています.例えば, 
ヨハネ福音書1章1-14節

ヨハネ福音書8章53-59節

ヨハネ福音書の17章に見る,主イエスの祈り.特に5節,

 「今は,父よ,みそばで,わたしを栄光で輝かせてください.世界が存在する前に,ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください.」,参照ヘブル1章3節,

 「御子は神の栄光の輝き,また神の本質の完全な現れであり,その力あるみことばによって万物を保っておられます.また罪のきよめを成し遂げて,すぐれて高い所の大能者の右に着かれました.」

 私たちは,ただ聖霊ご自身の導きと助けによって,主イエスが本来どのようなお方かを知らされ,トマスと共に,「私の主,私の神」と告白し礼拝するのです.どのようにしてでしょうか.

 「イエスが神の子キリストであることを,あなたがたが信じるため,また,あなたがたが信じて,イエスの御名によっていのちを得る」(ヨハネ20章21節)ために書かれた聖書を聖霊ご自身の助けを受けつつ読むことを通してです.日々の聖書の味わいをないがしろにできないのです.

[3]「仕える者の姿」
 さらに驚くべきことには,クリスマスのできごとです.主イエスが神としてのご栄光を捨て,私たちと同じ人間になられた事実をことばを重ね彫り出して行きます.
(1)「神のあり方を捨てることができないとは考えない」

 主イエス受肉,クリスマスの意味.主イエスはご自身の神としての位置・権威を自分の利益のために用いない.その道をご自身から選ばれたのです.参照ロマ15章3節,Ⅱコリント8章3節.

 ここでの強調点は,キリストは真の神であらたので(にもかかわらずではなく),受肉と十字架の道を選び取られた事実です.主イエスがこのように考え・理解され現に行動なさったのは,神の愛の現れ以外のなにものでもない,参照ヨハネ3章16節,ロマ5章6-8節.

 今週の聖句,マルコ10章45節の前後関係・文脈を注意.マルコ10章45節の仕える者としての主イエスの姿は,42節に見る異邦人の支配者や専制君主の実状との鋭い対比.私たちの国において,公僕としての位置を与えられている人々の実状は.問題はどのような位置・立場にあるかではなく,その位置・立場をどのように活用するか(自らの利益か他者の益か).

(2)「ご自分を無にして」
 6節の「できないとは考え」と鋭い対比,参照「かえって自分を無にして」(新共同訳).主イエスがご自身を注ぎ出し,人々のためご自身を与えなさること,受肉・クリスマスのできごととはこの一事.その具体的内容を,
 ①「仕える者の姿をとる」,

 ②「人間と同じようになる」と二重の表現で説明.

(3)「仕える者の姿」
「僕(しもべ)の形」(前田訳),当時の社会で,いのちや人格にさえかかわることを含めすべての権利を奪われていた奴隷.主イエスは人間・私の救いのため,救い主としての使命を引き受け受肉なさり「ご自分を無にした」とき,奴隷となられたのです.仕える者・奴隷としての姿をハネの福音書は,受肉前の栄光と共に鮮やかに描いています.特に13章3-5節


[4]結び
(1)私たちの日々の生活・生涯において,私たちなりに主イエスに心を集中したいものです.「イエス・キリストをつねに思ってください.彼はダビデの末の出で(旧約聖書),死人の中からよみがえられました(新約聖書).これがわが福音です」(前田訳)とパウロがⅡテモテ2章8節で明らかにしているように,福音の中心は,この一事です.聖書を味わいつつ,主イエスを思う,主イエスを思いつつ祈ります.福音書を祈りつつ通読することを心よりお勧めします.

 また讃美も大きな助けです.例えば,聖歌733番を

 祈りの支えの中で出版できました,天願悦子姉の記念誌『いつも笑顔で』の中に紹介されている日記に垣間見る,「イエス様・・・悦子」の調べを,私たちの日常生活・生涯においても現実としたいものです.

(2)主イエスは,真の神にして,真の人間,真の人間になられた真の神.この驚くべき聖書の宣言を世々の教会は,何とかして自分のことばで言い表そうとして来ました.「主イエス・キリストは,まことの神であり,まことの人である」と.

(3)「仕える者の姿」,自発的に受肉と十字架を選ばれ苦難のしもべとしての道を歩まれた主イエス.主イエスの僕(しもべ),主僕(しゅぼく)として生きる道を歩む恵みの招きに答えて行く日々の生活と生涯.伊江島主僕高校の幻は,この道以外のなにものでもありません.それは,やがてのものであるばかりでなく,すでに伊江島中高キャンプにおいて現実のものとなりつつあります.私たちの持ち場・立場で主イエスに心を注ぎつつ歩む道が,主僕の道,主イエスの弟子としての歩みです.

 「イエスは,みなの者に言われた.『だれでもわたしについて来たいと思うなら,自分を捨て,日々十字架を負い,そしてわたしについて来なさい.」(ルカ9章23節).

 アドヴェントは,主イエスのご降誕への備えと共に,主イエスのご再臨への備えと理解されてきました.

 「そのときまで 十字架をおわん.救いの恵を喜びつつ」

                       (聖歌206番6節).

         



 

ピリピ2章1-18節の味わい その3 「十字架の死にまでも」                         ピリピ2章6-11(Ⅱ)

ピリピ2章1-18節の味わい その3
「十字架の死にまでも」  

                      ピリピ2章6-11(Ⅱ)

[1] 序.
 ピリピ2章6-11節二回目の味わい.ピリピ2章7節の最後の部分と8節,特に「十字架の死」の意味,私たちの日々の生活と生涯へのメッセージに心を開き聞き従いたいものです.

[2]「人間」
(1)7節の最後から8節において,「人間と同じようになられた」,「キリストは人としての性質をもって現われ」と,「人間」ということば(「人間」,「人」と訳語は違っていても,もともとは同じことば)を二回かさねて強調.「人間」は,鍵のことば

 「人間と同じようになられた」とは,他の人間と同じように生まれたことを意味し,本来神なるお方(6節)が,降誕・誕生・受肉を通して,罪以外の(Ⅱコリント5章21節)あらゆる面で,真の人間となられたこを強調し明示しています.主イエスはどのようにして,「ご自分を無に」されたか,「仕える者の姿をとり」に続き,明確に説明し定義しています. 「仕える者の姿をとり」,「人間と同じようになり」,「死にいたるまで従われた」と,「神の御姿であられる方」の受肉,地上での歩みをことばを重ねて描き,主イエスは真の人であるが,単なる人でないことを描いています.

(2)「人間」に,いかに深い意味で主なる神が心を向けてくださっているか.この恵みに十分注意する必要があります.神の御子イエスが全く同じようになることを選ばれるほど,「人間」は尊い存在です.人間を軽視することは許されません.人間・私を軽く見てはならないのです.人間・私を大切にせずに,主イエスを信ずることなどありえません.

 「神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら,その人は偽り者です.目に見える兄弟を愛していない者に,目に見えない神を愛することはできません.神を愛する者は,兄弟をも愛すべきです.私たちはこの命令をキリストから受けています」(Ⅰヨハネ4章20,21節).

[3]「実に十字架の死にまでも従われたのです」,8節.
(1)「キリストは人間と同じようなかたちになり,自分を卑しくし」
①先在のキリストは,底に徹し人間となられたのです.

 この主イエスが現実にまた完全に人間になられた事実を新約聖書は一貫して強調しています.

 参照ルカ2章52節,

   ヨハネ1章14節,

   ロマ8章3節,

   ガラテヤ4章4節,

   コロサイ1章22節,

   ヘブル2章17節,4章15節,5章7-9節.

②主イエスがご自身でご自身を卑しくなされた自己卑下の道は,主イエスが「自分(自身)を卑しくし」と強調,ご自分から自発的になされた事実を明示しています.参照イザヤ53章8,13節.

(2)「死にまでも従い,実に十字架の死にまで」
 主イエスが「自分を卑しく」されるとは,実際には死の極みまで従うことであったと説明しています.

 「十字架の死」は,「仕える者」・奴隷(7節)がピリピ人への手紙が書かれた当時実際に目の前にする現実であったように,当時の実際的な刑罰の方法で,奴隷をはじめ位置の低いとされた人々にだけ実施された,最も残虐な方法と言われます.主イエスの誕生は,主イエスの十字架を目指すものであり,主イエスの誕生の意味は,十字架を通してだけ十分悟られるものです.マタイ26章-46節に描かれているゲッセマネの園の場面の味読を.  

[4]結び
(1)神についての知識と人間・私についての知識,切り離せません. 人間・私はについて,主イエスが人間となられた事実から切り離して本当に知ることはできないのです.そして私たちは,人間・私の現実の姿を知るとき,人となられた主イエスご自身を信じ仰ぐしかないのです.人間・私のような悲惨な者は,主イエスご自身にしか救いの望みを見いだすことができません.

(2)主イエスに従う.
 死にまでも従い,実に十字架の死にまで従われた主イエスに,日々の生活において・生涯にわたり従うのです.聖歌733番が助けの一つに.

1.ゲッセマネのよるの きみをしのばば

    うきもなやみも などで避くべき

       おのれをすてて きみにしたがわん

 2.ピラトのにわの きみをしのばば

    はじもなわめも かこつべきかは

       言い訳せずに きみにしたがわん

 3.カルバリやまの きみをしのばば

    いたみくるしみ ものの数かは

       十字架をおいて きみにしたがわん

 4.はかよりいでし きみをしのばば

    あたもあくまも おそるべきかわ

       かちどきあげて きみにしたがわん


(3)十字架.
 日本クリスチャン・カレッジでの卒論,『ドストエフスキーの神学的一考察』のための学び(1961,62年)を通し,心に刻むことを許された恵みの一つ.ドストエフスキーの作品,『悪霊』の印象深い登場人物,チーホン僧正が,主人公スタヴローキンの神を自ら裁くような告白を聞き,「主よ,汝の十字架をわれ恥ずまじ」とつぶやいたとの描写.さらに『カラマーゾフの兄弟』において,ゾシマ長老が,信仰と愛とによって,この醜悪な世界を浄化し,美化していく戦いの戦士を目ざすアリーシャに,「然(しか)るに実行の愛に至っては,何のことはない労働と忍耐じゃ」と教えたことば.当時の願いを,「ドストエフスキーの暗さと危機の彼方から,常に輝き続けておられる御方が,あの唯一の書を通して,弱い我々を導いて下さいますように.そして,一人一人が『主よ,汝の十字架をわれ恥ずまじ』と告白をなし続けられますように」と卒論の終わりの部分で記していますが,六〇年経過した今日全く同じ思いです.

         

ピリピ2章1-18節の味わい その4 「イエス・キリストは主」                         ピリピ2章6-11(Ⅲ)

ピリピ2章1-18節の味わい その4
イエス・キリストは主」  

                      ピリピ2章6-11(Ⅲ)

[1] 序
 とにかくともに,主イエスの御名を讃美する喜び.

[2]「御名」,9節
(1)聖書に見る名前,私たちの名前.

   主イエスの名前.

(2)『主の名を呼ぶ者はみな救われる』(ヨベル2章32節)

[3]「イエス・キリストは主である」,10,11節.
(1)裁判官,弁護士として

①小岩小学校の花井先生はよく言っていた.「宮村君弁護士になりなさいよ」と.

②主イエスを信じる裁判官,弁護士になるには.

(2)小説家,文学者として
①主イエスを信じて,沖縄でものを書く人に.

②では沖縄の各地域教会ではどんな準備を.  

[4]結び
(1)今朝,ここでの讃美と礼拝,その意味.

(2)今朝,ここでの讃美と礼拝の広がり,

   家でも学校でも,どこでも.

   来年も十年後も,死ぬまで主イエスに忠実に従う.

◆聖歌654番 神のお子のイェスさま

 1.神のお子のイェスさま わたしさえあいすと

    きよい神のみふみは ちゃんとのべております

     わたしをも愛して下さるイェスさま

         こころからあいしてつかえましょう

 2.みちをわすれまいごに なったときもわたしを

    みつけだしてしらわず 愛したもうイェスさま

     わたしをも愛して下さるイェスさま

         こころからあいしてつかえましょう

 3.いきていらばこの世で 死んださきはみくにで

    声の限りほめましょう 愛したもうイェスさま

     わたしをも愛して下さるイェスさま

         こころからあいしてつかえましょう

     

ピリピ2章1-18節の味わい その5   「志を立てさせ,事を行なわせてくださる方」                       ピリピ2章12-18

ピリピ2章1-18節の味わい その5
  「志を立てさせ,事を行なわせてくださる方」

                      ピリピ2章12-18

[1] 序.
 ピリピ2章1-18節を五回連続で味わう計画の五回目.

 ピリピ2章12-18節は,6-11節に見るクリスマスの事実を記す聖句の直後で,主イエスに見る事実(主イエス受肉をはじめ十字架を中心とした御業)の故にとでも言いたい箇所です.その内容をピリピ教会の人々(12-16節),パウロ自身(16節後半ー17節前半),そして「あなたがたすべてとともに喜びます.あなたがたも同じように喜んでください.私といっしょに喜んでください」(17節後半,18節)とピリピ教会の人々とパウロが共有する経験の部分にわけながら見て行きましょう.

[2]「そういうわけですから,愛する人たち」・コリント教会の人々.(1)「今はなおさら,恐れおののいて自分の救いを達成してください」2章6-11節に描く,神の最高の「恵みをむだに受けないように」(Ⅱコリント6章1節)との勧めです.私たちは主なる神の命令・おしえをなおざりにしてはいけないのです.「主のおしえを喜びとし,昼も夜もそのおしえを口ずさむ」(詩篇1篇2節)生き方をこそ,求めるのです.私たちの立場・恵みの立場を自覚し,恵みの馳場でゴールを目指し走り続けます(参照ヘブル12章1,2節).妨害がある(参照ガラテヤ5章7節)から注意し,軽はずみや高慢に陥ることなく,また絶望することなく,絶えず日々に,生涯の終わりまで主イエスに従い続けるのです.しかもそれは単なる私たちの頑張り(がんばり)ではないのは,以下に見る通りです.

(2)「志を立てさせ,事を行なわせてくださる方」.12節の勧めに答えるには,13節の約束に信頼する必要があります.まず「みこころのままに」に注意を払う必要があります.主なる神の言い分です.被造物全体,そして私たちについてのご計画です.ここでは少なくとも,三つの点があります.
 ①主なる神が私たちの中に働いてくださる,恵みの事実.

 ②志を立て,意欲を持たせ,計画を立てる,恵みをむだにしない応答. 

 ③私たちが実行できるようにと神の恵みの働き.
 恵みのサンドイッチとでも呼びたいほどです.何よりもパウロが自分自身の経験として伝えている事実です(Ⅰコリント15章10節).しかしパウロに限らず,さまざま多様な働きをするすべての人々に現実となっている恵み(Ⅰコリント12章6節)です.これこそ,「つぶやき」,「うたがい」からの解放の道です.逆に言えば,12節の勧めに従わず,13節に見る約束に信頼しないなら,荒野のイスラエルのように「つぶやき」と「疑い」に支配されてしまうとの警告です(参照Ⅰコリント10章6節).

(3)「いのちのことばをしっかり握って」とは,日々聖書を読み,祈る時間や場所を定め意識的に主なる神に聞き従う営みを繰り返し,習慣とすることを意味していると受け止め得ます.イスラエルの民が荒野のを旅している間,マナを「毎日,一日分を集め」(出エジプト記16章4節,21節,参照ネヘミヤ9章20,21節)たように.

 ピリピ教会の人々の置かれている状況を「曲がった邪悪な世代」とパウロは表現しています.これは,誤解を恐れないで言えば,私たちの時代では,ラジオ,テレビ,新聞などマスメディアの物凄い情報の氾濫を指していると言えないでしょうか.邪悪とは一見して見るからに悪と印象ずけるものだけとは限らないと注意したいのです.最善の敵は,ときには善であり,より善であるものと言われる消息です.サウルとイエラエルのすべての人と同じように,「意気消沈し,非常に恐れ」(Ⅰサムエル17章11節)そうです.「生ける神の陣をなぶっ」(Ⅰサムエル17章36節)ている巨大な力を痛感します.こうした中で,「慣れていない」(Ⅰサムエル17章39節)武器は役に立たないのです.平凡に見えても,日ごとにみことばを味わい,祈りをなす習慣を身につけることを個人としても教会としても大切にする必要があります.ではどのようにして身に着くのでしょうか.13節の約束を重視.恵み,意志,恵みのサンドイッチに基づく習慣の確立です.

[3]パウロの実例,16節前半,17節.
(1)「自分の努力」,「苦労した」.
 これは,ピリピ1章29節,「キリストのために,キリストを信じる信仰だけでなく,キリストのための苦しみをも賜わったのです」にかかわります.この点について,パウロはⅡテモテ2章1-13節で三つの例をあげテモテに詳しく伝えています.
 ①キリスト・イエスのりっぱな兵士

 ②競技をしている者

 ③労苦する農夫

 注意したいのは,その勧めの中で鍵として,8節,「私は福音の言うとおり,ダビデの子孫として生まれ,死者の中からよみがえったイエス・キリストを,いつも思っていなさい」と伝えられている事実です.

(2)「たとい私が,・・・注ぎの供え物となっても」.有名なダニエル3章16-18節に見る,「たといそうでなくとも」の殉教の覚悟を含む信仰です.私たちは,私たちのために十字架の死をとげてくださった主イエスにあってキリストのため死の覚悟をする必要があり,福音を伝えるにあたっても,この覚悟を求め伝える責任があります.決して十字架の福音を安売りしてはならず,十字架の抜きの福音はありえないのです.そしてキリストにあっての死とは,殉教の死であると同時に,「だれでもわたしについて来たいと思うなら,自分を捨て,日々自分を負い,そしてわたしについて来なさい」(ルカ9章22節),「私はキリストとともに十字架につけられました.もはや私が生きているのではなく,キリストが私のうちに生きておられるのです.今私が,この世に生きているのは,私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラテヤ2章20節)と明言されているように,日々の己の死でもあることを聖書は私たちに教えています.この日々の己に死ぬ経験は,聖書を通しての主なる神からの語りかけ聞き祈りての応答を抜きには極めて困難なことでしょう.

(3)「私は喜びます」.努力,苦労,さらに殉教にもかかわらず,「喜び」なのです.ほとんど「それゆえ」の喜びと言えるほど.パウロが「私は喜びます」と言っているでけだなく,「あなたがたすべてとともに喜びます」と言い切り,18節に見るように,単なる個人的な喜びではなく,喜びの共同体・共同体の喜びを生きる勧めとなっている点に特に注意.  

[4]結び
 ローマ12章1,2節に基づき日々の個人礼拝の習慣確立を志ざすできたら幸いです.日々の個人的礼拝の習慣確立のためにも聖歌733番が助けになるに違いありません.

 1.ゲッセマネのよるの きみをしのばば

    うきもなやみも などで避くべき

       おのれをすてて きみにしたがわん

 2.ピラトのにわの きみをしのばば

    はじもなわめも かこつべきかは

       言い訳せずに きみにしたがわん

 3.カルバリやまの きみをしのばば

    いたみくるしみ ものの数かは

       十字架をおいて きみにしたがわん

 4.はかよりいでし きみをしのばば

    あたもあくまも おそるべきかわ

       かちどきあげて きみにしたがわん