ピリピ2章1-18節の味わい その5   「志を立てさせ,事を行なわせてくださる方」                       ピリピ2章12-18

ピリピ2章1-18節の味わい その5
  「志を立てさせ,事を行なわせてくださる方」

                      ピリピ2章12-18

[1] 序.
 ピリピ2章1-18節を五回連続で味わう計画の五回目.

 ピリピ2章12-18節は,6-11節に見るクリスマスの事実を記す聖句の直後で,主イエスに見る事実(主イエス受肉をはじめ十字架を中心とした御業)の故にとでも言いたい箇所です.その内容をピリピ教会の人々(12-16節),パウロ自身(16節後半ー17節前半),そして「あなたがたすべてとともに喜びます.あなたがたも同じように喜んでください.私といっしょに喜んでください」(17節後半,18節)とピリピ教会の人々とパウロが共有する経験の部分にわけながら見て行きましょう.

[2]「そういうわけですから,愛する人たち」・コリント教会の人々.(1)「今はなおさら,恐れおののいて自分の救いを達成してください」2章6-11節に描く,神の最高の「恵みをむだに受けないように」(Ⅱコリント6章1節)との勧めです.私たちは主なる神の命令・おしえをなおざりにしてはいけないのです.「主のおしえを喜びとし,昼も夜もそのおしえを口ずさむ」(詩篇1篇2節)生き方をこそ,求めるのです.私たちの立場・恵みの立場を自覚し,恵みの馳場でゴールを目指し走り続けます(参照ヘブル12章1,2節).妨害がある(参照ガラテヤ5章7節)から注意し,軽はずみや高慢に陥ることなく,また絶望することなく,絶えず日々に,生涯の終わりまで主イエスに従い続けるのです.しかもそれは単なる私たちの頑張り(がんばり)ではないのは,以下に見る通りです.

(2)「志を立てさせ,事を行なわせてくださる方」.12節の勧めに答えるには,13節の約束に信頼する必要があります.まず「みこころのままに」に注意を払う必要があります.主なる神の言い分です.被造物全体,そして私たちについてのご計画です.ここでは少なくとも,三つの点があります.
 ①主なる神が私たちの中に働いてくださる,恵みの事実.

 ②志を立て,意欲を持たせ,計画を立てる,恵みをむだにしない応答. 

 ③私たちが実行できるようにと神の恵みの働き.
 恵みのサンドイッチとでも呼びたいほどです.何よりもパウロが自分自身の経験として伝えている事実です(Ⅰコリント15章10節).しかしパウロに限らず,さまざま多様な働きをするすべての人々に現実となっている恵み(Ⅰコリント12章6節)です.これこそ,「つぶやき」,「うたがい」からの解放の道です.逆に言えば,12節の勧めに従わず,13節に見る約束に信頼しないなら,荒野のイスラエルのように「つぶやき」と「疑い」に支配されてしまうとの警告です(参照Ⅰコリント10章6節).

(3)「いのちのことばをしっかり握って」とは,日々聖書を読み,祈る時間や場所を定め意識的に主なる神に聞き従う営みを繰り返し,習慣とすることを意味していると受け止め得ます.イスラエルの民が荒野のを旅している間,マナを「毎日,一日分を集め」(出エジプト記16章4節,21節,参照ネヘミヤ9章20,21節)たように.

 ピリピ教会の人々の置かれている状況を「曲がった邪悪な世代」とパウロは表現しています.これは,誤解を恐れないで言えば,私たちの時代では,ラジオ,テレビ,新聞などマスメディアの物凄い情報の氾濫を指していると言えないでしょうか.邪悪とは一見して見るからに悪と印象ずけるものだけとは限らないと注意したいのです.最善の敵は,ときには善であり,より善であるものと言われる消息です.サウルとイエラエルのすべての人と同じように,「意気消沈し,非常に恐れ」(Ⅰサムエル17章11節)そうです.「生ける神の陣をなぶっ」(Ⅰサムエル17章36節)ている巨大な力を痛感します.こうした中で,「慣れていない」(Ⅰサムエル17章39節)武器は役に立たないのです.平凡に見えても,日ごとにみことばを味わい,祈りをなす習慣を身につけることを個人としても教会としても大切にする必要があります.ではどのようにして身に着くのでしょうか.13節の約束を重視.恵み,意志,恵みのサンドイッチに基づく習慣の確立です.

[3]パウロの実例,16節前半,17節.
(1)「自分の努力」,「苦労した」.
 これは,ピリピ1章29節,「キリストのために,キリストを信じる信仰だけでなく,キリストのための苦しみをも賜わったのです」にかかわります.この点について,パウロはⅡテモテ2章1-13節で三つの例をあげテモテに詳しく伝えています.
 ①キリスト・イエスのりっぱな兵士

 ②競技をしている者

 ③労苦する農夫

 注意したいのは,その勧めの中で鍵として,8節,「私は福音の言うとおり,ダビデの子孫として生まれ,死者の中からよみがえったイエス・キリストを,いつも思っていなさい」と伝えられている事実です.

(2)「たとい私が,・・・注ぎの供え物となっても」.有名なダニエル3章16-18節に見る,「たといそうでなくとも」の殉教の覚悟を含む信仰です.私たちは,私たちのために十字架の死をとげてくださった主イエスにあってキリストのため死の覚悟をする必要があり,福音を伝えるにあたっても,この覚悟を求め伝える責任があります.決して十字架の福音を安売りしてはならず,十字架の抜きの福音はありえないのです.そしてキリストにあっての死とは,殉教の死であると同時に,「だれでもわたしについて来たいと思うなら,自分を捨て,日々自分を負い,そしてわたしについて来なさい」(ルカ9章22節),「私はキリストとともに十字架につけられました.もはや私が生きているのではなく,キリストが私のうちに生きておられるのです.今私が,この世に生きているのは,私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラテヤ2章20節)と明言されているように,日々の己の死でもあることを聖書は私たちに教えています.この日々の己に死ぬ経験は,聖書を通しての主なる神からの語りかけ聞き祈りての応答を抜きには極めて困難なことでしょう.

(3)「私は喜びます」.努力,苦労,さらに殉教にもかかわらず,「喜び」なのです.ほとんど「それゆえ」の喜びと言えるほど.パウロが「私は喜びます」と言っているでけだなく,「あなたがたすべてとともに喜びます」と言い切り,18節に見るように,単なる個人的な喜びではなく,喜びの共同体・共同体の喜びを生きる勧めとなっている点に特に注意.  

[4]結び
 ローマ12章1,2節に基づき日々の個人礼拝の習慣確立を志ざすできたら幸いです.日々の個人的礼拝の習慣確立のためにも聖歌733番が助けになるに違いありません.

 1.ゲッセマネのよるの きみをしのばば

    うきもなやみも などで避くべき

       おのれをすてて きみにしたがわん

 2.ピラトのにわの きみをしのばば

    はじもなわめも かこつべきかは

       言い訳せずに きみにしたがわん

 3.カルバリやまの きみをしのばば

    いたみくるしみ ものの数かは

       十字架をおいて きみにしたがわん

 4.はかよりいでし きみをしのばば

    あたもあくまも おそるべきかわ

       かちどきあげて きみにしたがわん