市川治平元大佐(陸士三七・陸大四九)、わが伯父と私

市川治平元大佐(陸士三七・陸大四九)、わが伯父と私

市川治平元大佐(陸士三七・陸大四九)、わが伯父と私 
その1沖縄戦をめぐり

市川治平元大佐は、私の母典子が敬愛していた長兄です。
一九三九年生まれの私は、「兵隊おじちゃん」と呼んで、子供好きの伯父を慕っていました。
 母は、私と弟を連れて、福島県好間の奥成沢炭鉱に、東京深川から疎開しました。小炭鉱には所長がいたのですが、母も軍隊に行っていた父に代わり、それなりの役割を果たし始めた頃です。
 他に心を打ち明けて話す人が身近にいなかったためでしょうか、「沖縄で、伯父さんが飛行機に乗って死ぬ」と、何回か母が手短に話しました。
 小学校入学前後でしたが、初めて聞く、沖縄の地名と共に、多くの部下が飛行機で死んだように、最後に突っ込んで死ぬのだとの話の中心は、心に残りました。
 
 数年して、軍隊で階級が一つも上がらかった伝説を伝える父が復員、30代の若さながら、その指導の下に、「黒いダイヤ」と石炭を呼ぶ時代背景の中で、成沢炭鉱は、短時間で見違えるようになりました。
 市川伯父を初め、戦後追放を体験した親族などが父のもとに集まりました。その中で、市川の伯父は、ゆったりした時間の流れの中で釣りや碁を楽しみ、私の話し相手になり、私は多方面の影響を得たのです。

 しかし市川伯父の存在が私に新しい意味を持ち始めたのは、1986年、家族での沖縄移住以後です。
 私なりに、沖縄戦の学びを少しづつ続けました。
そして、市川伯父と沖縄戦の関係を確認するようになりました。
沖縄の第三二軍と台湾の第十方面軍の台北会議ー沖縄から精鋭兵団を移動する重要な案件をめぐる会議―その会議で、市川伯父は、台湾側の作戦主任であったことを知りました。

 こうして、戦術面だけでなく戦略面を含め沖縄戦を軍事面からも考える重要性を認めると同時に、その制約が、私の課題になりました

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その2① 幼年学校・士官学校・陸大と神学校教育・神学教育

 市川伯父は、母典子が敬愛していたこともあり、私の生涯に影響を与えたことを認めます。特に伯父が一貫して受けた近代における軍事教育と私が受け、その働きに参与した神学校教育・神学教育との比較対比が、無意識的にも意識的にも私の思索の対象になっていました。

 伯父が極幼年期から職業軍人の道を選び、実践したのは、時代背景があるのは勿論でしょう。しかし山梨県都留地域に、武田の敗軍の末裔と育ち、武田の兵法を意識し誇りとしていたことと強くかかわると私は理解します。
 私は、伯父と二つの時期身近に生活しました。
戦後私が小学1年生から3年生、福島いわき市の山奥・成沢炭鉱時代と開成高校3年のある期間、駒込の伯父の家に世話になり高校に徒歩で通った時です。
 成沢炭鉱では、伯父は、ゆっくりした時間の流れの中で、好きなどを楽しむ余裕の日々を過ごしていました。私は、伯父の所によく遊びに行きました。そうした中で聞いた、あれこれの言葉が、70年近く経過した今も記憶に残っています。
 例えば、「見える魚は釣れない」。目に見えるところだけに頼りがちな私たち。しかし、しっかり仕掛けをし餌をつけたら、見えるところでなく左右されるのでなく待つ。これは、伯父が受けた軍事教育から直接学んだかどうか不明ですが、私にとっては、考え深く作戦を練る伯父のイメージと結びつくものです。

 幼年学校か士官学校でのことか判別がつかないのですが、鮮明に記憶している伯父が受けた訓練の一つの話を覚えています。

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その2② 終末信仰を身に着け生きるには

 市川伯父が幼年学校か士官学校のいずれで受けた訓練か区別は記憶していません。しかし受けた訓練の内容を鮮明に記憶している訓練の一つがあります。
 それは、夜寝ている間に緊急事態が生じた場合を想定、暗闇の中で軍服を身に着ける訓練です。そうです。軍服の一番下、最後からボタンをかけて上まで行くことを反復くり返し、ボタン全体を暗闇の中で誤りなくはめる方法を身に着けたそうです。
 この話を伯父から聞いた時強い印象を受け、記憶に残っていました。
ところが、それから数十年経過した時点で、この話が聖書の終末信仰を身に着ける神学校教育、神学教育との関連で新しい深い意味を持って来たのです。
 
 60年前私が神学教育の手解きを受けた頃、新約聖書の終末信仰・終末論は、全神学総体の一部として教えられました。確かに重要な教えであっても、全体の一部でした。
 ところが、この半世紀の間に、私の知る小さな範囲でも確かに変化してきました。終末信仰・終末論は、聖書全体と深くかかわり理解され提唱されるようになりました。
 最後の確かな新天新地な希望から全体を見る。最後から、今、ここを見る。それこそ聖書の終末信仰であり、聖書が教える生き方の基盤。
 このような生き方が、真に身に着き、実を結ぶためには、市川伯父が受けた暗闇で軍服を明確に身に着ける教育方法が示唆を与えます。
 そうです、最後から、今、ここを見る。最後の新天新地の希望に満たされ、今ここで忍耐し役割を果たしていく。その生き方を身に着けるためには、寝たリ起きたリ日常生活での反復くり返しが重要です。なのだと、市川伯父を懐かしく思い出しながら、今年も2月には、沖縄を訪問、宣教の時をもちます、感謝。

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その3 陸大と神学校における、研究と教育

 市川伯父の影響は、確かに断片的であり、しかも時間の隔たりで、それが事実であるかどうか、現在私には確かめ得ないことも少なくないのです。しかも伝説が私たちの精神生活に侮りがたい影響を与えるように、市川伯父から聞いたこととしてそれらは、私の内面で長年にわたり作用し続けているのです。
 その一つは、陸大の教官に見る研究と教育の関係です。
いつ、どこで、どのような状況で聞いたか全く記憶がないのです。しかし陸大では、教官は、研究に専念する1年と教育に集中する一年を交互に繰り返し、研究と教育双方の充実を図っていたと市川伯父から聞いた思いが私の深部にあるのです。
 軍事教育でそうであるとすれば、神学教育でも当然、それに勝るとも劣らない研究と教育両面の充実があって当然。しかし神学教育の現状はと、危機意識を覚えたリ、悲しんだりしながら、陸大について伯父から聞いたとする内なる声が呼び掛ける挑戦に正面から立ち向かい小さな営みを継続してきました。

 私の歩みおいて組織としての神学教育機関に関心が向いたのではなく、そこで出会った恩師方へ心は集中したのです。そのお一人びとりの人格こそ、国家を挙げての軍事教育の鉄壁に対しても,びくともしない恵みの泉でした。
 日本クリスチャン・カレッジの渡邊公平先生、ゴードン神学院のロジャー・ニコル先生、上智大学神学部のペテロ・ネメシェギ先生をはじめとする恩師方の存在、生活と生涯に研究と教育の統合を見せて頂きました。
 特に、渡邊先生、ニコル先生そしてネメシェギ先生は、いずれも90歳を過ぎても、生き生きと研究と教育の実践をなされておられました。

 今79歳の誕生日を1月21日に迎えようとしている、この時、市川伯父の誇り高い陸大の教育実践についての伝説的思い出への応答です。
 「昼も夜も、読みに読み、
  夏きに書く。
  生涯の終わりまで。」と、「一寸の虫にも五分の魂」なのです。
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その2③ 終末信仰を身に着け生きるには

 市川伯父が幼年学校か士官学校のいずれで受けた訓練か区別は記憶していません。しかし受けた訓練の内容を鮮明に記憶している訓練の一つがあります。
 それは、夜寝ている間に緊急事態が生じた場合を想定、暗闇の中で軍服を身に着ける訓練です。そうです。軍服の一番下、最後からボタンをかけて上まで行くことを反復くり返し、ボタン全体を暗闇の中で誤りなくはめる方法を身に着けたそうです。
 この話を伯父から聞いた時強い印象を受け、記憶に残っていました。
ところが、それから数十年経過した時点で、この話が聖書の終末信仰を身に着ける神学校教育、神学教育との関連で新しい深い意味を持って来たのです。
 
 60年前私が神学教育の手解きを受けた頃、新約聖書の終末信仰・終末論は、全神学総体の一部として教えられました。確かに重要な教えであっても、全体の一部でした。
 ところが、この半世紀の間に、私の知る小さな範囲でも確かに変化してきました。終末信仰・終末論は、聖書全体と深くかかわり理解され提唱されるようになりました。
 最後の確かな新天新地な希望から全体を見る。最後から、今、ここを見る。それこそ聖書の終末信仰であり、聖書が教える生き方の基盤。
 このような生き方が、真に身に着き、実を結ぶためには、市川伯父が受けた暗闇で軍服を明確に身に着ける教育方法が示唆を与えます。
 そうです、最後から、今、ここを見る。最後の新天新地の希望に満たされ、今ここで忍耐し役割を果たしていく。その生き方を身に着けるためには、寝たリ起きたリ日常生活での反復くり返しが重要です。なのだと、市川伯父を懐かしく思い出しながら、今年も2月には、沖縄を訪問、宣教の時をもちます、感謝。

その4 、「法然頭の武夫は」

 市川伯父は、とても子供好きで、幼児の頃から私も大好きでした。
私の幼い時期、3、4歳頃のかなり鮮明な記憶の一つは、伯父の軍服の胸のところに参謀であると示すひも状の飾りがつけられていたことです。どうして、そんなことが記憶に残っているのか、面白い現象です。
 しかし、何と言っても一番鮮明な記憶は、伯父が教えてくれたジェスチャーゲームです。それは単純なもので、額を叩くと舌が出、顎を叩くと引っ込む動作の連続です。伯父は、その単純な動作を、実に絶妙なタイミングでなすので、私はすっかりとりこになって、何回も何回も伯父を真似て、その動作を飽きることなく、繰り返しました。
 そうです。あの時から70年近く経過した3年ほど前、2月に訪問した名護チャペルの保育園で、説教の中あのジェスチャーゲームを演じたのです。
 驚く程の反応でした。70年前の私同様、子供たちは、同じ動作を繰り返したのです、何回も何回も。

 市川伯父を、「兵隊おじちゃん」と呼んでいました。
あの時代、多くの子供が、「兵隊さんになりたい」と言」っていた中で、私は、あんなに伯父が大好きなだったのに、「兵隊さんになりたい」とか、「兵隊おじちゃんのようになりたい」とか、一度も言った覚えがないのです。
 どうして、そうだったのか。
一つ心当たりがあります。市川伯父は、私が赤ん坊の時から、「武夫の頭は、法然頭」、「法然頭の武夫は仏教の道へ進めばよい」と、しばしば母に言っていたそうです。
 母典子は、長兄の市川伯父をとても深く敬愛していました。それで伯父の言葉は、私の育児方法に影響したと推察します。
 伯父の「然頭の武夫は」を側面から補助する一人の人、一のことを母から聞いていました。
 赤ん坊の私を連れて電車に乗っていた時、前の座席に座っていた老婆が、母のもとに来て、「この赤ん坊は、宗教の世界に進む人、大切に育てなさい」と語ったのです。

 2週間ほど前、TCUの大和先生に、久しぶりで電話を掛けました。
法然頭」の正確な意味を聞くためです。

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その5、「ただ市川参謀のみが…」、後出しじゃんけんでなく

 台北会議において、市川治平元大佐(陸士三七・陸大四九)のみが発言したとの記録に、わが伯父ながら共鳴するのです。
 沖縄戦最終段階での台北会議については、1986年4月沖縄へ移住して程なくして知りました。その後気になり続けていましたが、昨年末弟三郎牧師から一冊の本を見せてもらい、少しづつ読み進め、それなりの判断を持ちことができるようになりました。
 一冊の本とは、中公文庫『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』です。
 日本軍の失敗の事例研究6つの一つとして、「6沖縄戦ー終局段階での失敗」が取り上げられています(222−261頁)。報告の中で、沖縄側の八原大佐と台湾側の市川参謀のとの発言をめぐる態度が対照的です。
 台北会議出世区に先立ち、牛島司令官や長参謀長に八原大佐は意見書を提出後、沈黙するよう強く戒められていたのです(227頁)。会議の席上、八原大佐は訓示に従い、発言することなく沈黙を守ったのです。

 これに対して、わが伯父については、「ただ市川参謀のみが、台湾防衛の重要性と兵力不足を訴えた。彼の主張は、第三二軍は第一〇方面軍の隷下にあるのだから、方面軍司令官にその兵力運用を裁量できる権限がある、といわんばかりであった」(229頁)。
 また、「戦後、八原大佐は『軍の運命を決するこの重大な会議に、一言もいうべきことをいわなかった自分の態度に、なんとなく悔恨のが残る』と述懐している」(229頁)。

 「いわんばかりであった」とか、八原大佐の述懐には、私から見ると後出しじゃんけん的です。発言するべき時と場で、「ただ市川参謀のみが…」と記さているわが伯父に、共鳴を覚えるのです。

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その6、小学校下級生の時、市川伯父から聞いた緒方竹虎の名と言葉が、今想起!

 市川伯父は、福島県いわき市の山奥成沢炭鉱時代、比較的ゆっくりとしたペースで日々を送り、よく私の相手になってくれました。
 そうした中で断片的に記憶している一つは、政治家の中で、吉田茂の名前と一緒に聞いた「緒方竹虎は本物人物だ」との言葉でした。小学校4年生になるときに、家族と離れ、小岩の祖母と生活するようになる前のことです。

 ところがです。その緒方竹虎の名前と言葉に、79歳の今年、藤岡伸一郎著、『取材拒否 権力のシナリオ、プレスの蹉跌』を再読しているときに
出会ったんです。
 2014年4月クリスチャントゥデイの働きに参与して以来、思いもよらぬ取材拒否の事態に直面しました。この事態を私なりに考えようとする過程で本書に出会い、必要に応じて拾い読みをして来ました。
 ところが今年になって、資料Ⅰ「新聞倫理綱領」昭和21年7月23日制定・昭和30年5月15日補正(本書398,399頁)を、心を熱くしながら熟読吟味したのです。
 その過程で、本書408頁にある、「本書の筆者の一九九〇年四月十日日付のあとがき」に以下の文があり、目にに飛び込み、心に刻まれたのです。

「言論人・緒方竹虎は晩年、朝日新聞のずっと後輩にあたる笠信太郎にに話している。
 『何か意見を書く場合には、その当事者と向き合って話をして顔を赤くせんでもよいものでなければならん。ということは、新聞の陰にかくれて無責任なことをやってはいけない、その人と膝を交えて論議しても言えることでなければいかぬぞ。』」
 時の流れを越えて、小学校下級生の時成沢炭鉱で聞いた、わが伯父市川治平のことばが想起されました。
 幼年学校出の根っからの職業軍人である伯父と政治家になる前の言論人緒方竹虎の接点がどこであったのか、今は知る由もないのですが