ホーク学長の問いかけ、保身か保線か

ホーク学長の問いかけ、保身か保線か

10代の最後に、日本クリスチャン・カレッジで出会ったホーク学長が、
70代最後の私に問いかけているのは、保身か保線かの単純な、しかし重要な決断と改めて心しています。

★2000年11月1日
東京キリスト教え学園創立記念礼拝メッセージ
『保線夫として』
申命記三章1節〜11節
                   宮村武夫

[一]序
 おはようございます。
 今朝ご一緒に設立記念礼拝に集ることが許され、感謝いたします。二千年記念行事全体が「回顧と展望」の主題のもとに企画されており、、東京キリスト教学園史の節となる事柄の十年、二十年、五十年を記念し、学園の歩みを回顧と展望する、この趣旨を学園から送られて来た案内を通し私たちはよく承知しおります。今記念礼拝においても、企画全体が目指している回顧と展望、この主題を心に留め、一時を過ごせたなら、幸いです。 
 「回顧と展望」、この鍵語(キーワード)を考えますと、小さな個人的な経験を私は思い出すのです。先ほど紹介いただきましたように、一九八六年四月に沖縄に移り、首里福音教会の一員として生かされるようになりました。沖縄の生活で最初のまとまった「書く」仕事は、一九八八年一月十五日に出版して頂いた、『申命記』(新聖書講解シリーズ、旧約4)です。この小さな申命記講解を書きながら、明確に意識していたことの一つ、それは以下の点です。
 申命記の一章から最後まで、実に様々な事柄について言及しています。「しかしそれらはばらばらに筋道なく描かれているのではない。出エジプトと荒野での経験を回顧し、約束の地を展望する枠組み、大きな流れに従って書かれている。」(前述拙書、282頁)。
この回顧と展望は、申命記全体の構造であるばかりではない。各部分、例えば先程読んでいただきました、三章の一節から十一節を少し集中的に見るならば、その短い箇所にも、それなりに回顧と展望の枠組みを見出せます。このささやかな経験を念頭に置きながら、今生かされている場にあって、三章一節から十一節に焦点を絞りたいのです。
 今生かされいる場。一九八六年4月から沖縄の首里福音教会で一教会員また牧師としてキリストにあって生きる営みを始め、沖縄聖書神学校でも聖書解釈を担当するようになりました。この新しい生活の中で、一つの課題・喜びを明確に意識するようになりました。それは、以下のように図式できます。

『沖縄で聖書を読む課題・喜び』
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『聖書で沖縄を読む課題・喜び』 

 沖縄で聖書を読む課題・喜びから、聖書で沖縄を読む課題・喜びへと、一人の作家との内的な対話も一つのきっかけであったと思いますが、ごく自然に導かれて行きました。
 聖書を読む。この一事がどれ程大切であるか私なりに教えられ続けてきました。TCC、TCTS、そして沖縄聖書神学校いずれの聖書解釈の授業でも、聖書に何が、いかに書かれているか、聖書の構造に意を注ぐことをいつも繰り返し強調してきました。さらに著者がなぜこのことをこのように書いているのか、著者の意図を探って行く。探った著者の心に我が心を合わせ従い生きながら、聖書のメッセージを伝えていく。生活・生涯のただ中で聖書を読む、聖書を読みながら生活を重ね生涯を貫く。聖書を読む。この一事がどんなに大切であるか、一高校生として主イエスに従う歩みを始めた最初期にはっきり教えられたこと、四十数年、年を重ねた今も心より感謝し続けております。
 「聖書を」を読む。これは主イエスに従う私たちの歩みにおいて必要条件です。しかしそれは十分条件ではない。この一事を沖縄で次第に明確に意識するようになったのです。一人のキリスト者、一人の牧会者として聖書を読む。聖書に何がどのように書かれているか、このことをこのように書いている著者の意図を探り、聖書のメッセージに従い生きながら伝えて行く。それで十分なのだとの錯覚に、自分は陥っているのではないか。それは確かに必要条件、しかしもう一歩前進する必要がある。聖書に何がいかに、何故書かれているのかを知るのは、それをもって、自分が生きている現実、いや生かされている現実、私の場合で言うなら「沖縄を読む」ためではないのか。この小さな営みを継続することこそ、沖縄で聖書を真に読み、正しい意味での神学の営みをなし続けることではないと、心に刻むようになりました。
 より具体的に言えば、先ほど下川先生が紹介してくださいました、「台風の神学」の場合です。聖書で台風を読み理解する、これが台風の神学です。私たちは、沖縄の離島の一つ、伊江島で、春と夏中高生キャンプを持ち続けています。夏のキャンプの季節には、毎年ではないのですが、台風が非常にしばしば来るのです。ですから私たちは祈ります。。「神様、キャンプが日程通り行なわれますように。」と。そして台風が来なければ感謝します。それだけではなく、台風が来ても台湾の方に逸れるなら、沖縄に台風が来なかった、予定通りキャンプを行なうことができた、そう言って感謝します。当然なことながら、これは何処かおかしいんではないかと私たちは気付くようになりました。沖縄の台風も、台湾の台風も、まさしく同じ台風。台風をどう考えたらいいのか。聖書から台風を見る、それを「台風の神学」と呼ぶわけです。
 同様に、伊江島主僕キャンプ。今朝礼拝に出席している学生の皆様の中に、伊江島主僕キャンプに以前参加してくださったお二人の方がおられること、私には心からの喜びです。聖書で島を読み理解する。伊江島という五千人の方が住む島を聖書から読む。これが伊江島主僕キャンプの神学です。
 以上のような背景の中で、今朝、聖書でキリスト教学園の設立記念、記念すべき十年、二十年、五十年を読む営みを進めたいのです。勿論、私たちが直面する制約の中でのことです。少なくとも、二つの明確な制約があります。 
 「聖書で」と言うとき、本来「聖書全体で」なすべきです。しかし今、私たちは、申命記だけで、それもわずか三章1−11節をもって、しかもそれを深く掘り下げる余裕のない非常に限られた状況の中で営みを進めねばなりまん。
 さらに読むべき対象についても、記念すべき十年、二十年、五十年のほんの一部であり、わずか一つの側面に触れるに過ぎません。しかし明白な制約を自覚しながらも。今朝この礼拝の場が一つの小さな試論的モデルとして用いられるならば、キリスト教学園の創立を記念することになると、私なりに考えます。されに制約のもとでの回顧を通し、学園の将来について展望、一、二の点に限りできれば、幸いです。

[二]申命記3章1−11節
 先ほど読んで頂きました申命記3章1節から11節に何が書かれているか、その大筋だけでも注意したいのです。

(1)三章1節
 イスラエルの民が、「バシャンへの道を上っていった」(1節)時、ただちに道が開かれたのではなく、「バシャンの王オグとそのすべての民は、・・・戦うために出て来た」とあります。この1節の内容を、新改訳は、2節文頭の「そのとき」で表現しています。そうです。「とき」、「歴史」に意を注ぐ必要があります。申命記三章1節以下は、漠然とした一般的事柄を記述しているのではないのです。特定の「とき」、つまり、主なる神のご計画の中ではっきりした位置を与えられている「とき」に、主なる神はモーセに「仰せられた」(2節)のです。
 皆様よく賛美なさると思います、リビングプレイズ中の「御手の中で」という賛美。あの「御手の中で」という表現は、英語ではIn His timeと言い表されています。私たちは、ときの流れの中で母の胎内に組み立てられ(参照詩篇139篇13節)、ときの流れの中で生かされている。この事実は、まさにあのお方の御手の中にある恵みだと言うのです。
 キリスト教学園が十年、二十年、そして五十年のときの流れの中で歩みを進めて来た事実は、単なる無人格的なときの中での営みではない。あのお方の「御手の中に」In His time、おいて営まれた、深く重い人格的ドラマなのです(参照詩篇31篇14節、15節前半)。

(2)三章2節前半
 新改訳が「そのとき」と2節文頭に記しているのは、この箇所を私たちが理解する助けになります。まさに「そのとき」、主なる神はモーセに、「彼(バシャンの王オグ)を恐れてはならない」と仰せられたのです。4節、5節が明示するように、オグの勢力は、いかにも強固で、モーセが恐れても仕方のない状況でした。事実、モーセは恐れていたと見るほうが自然です。恐れのただ中で、主なる神がモーセに、「恐れるな」と呼びかけているのです。

(3)三章2節後半
 そして主なる神はモーセに、「わたしは、彼と、そのすべてのの民と、その地とを、あなたの手にに渡している」と、約束なさいます。その際、「あなたはヘシュボンに住んでいたエモリ人の王にしたように、彼にしなければならない。」と、主なる神はモーセに命じておられます。モーセは自分が見聞きした過去の出来事、つまり、エモリ人の王シオンをめぐる事々をしっかりと回顧しつつ、今、まさに来たらんとしている目前の事柄−バシャンの王オグとの対決−に備えるのです。将に来たらんとしていることを展望するのです。モーセは、彼の歩みの一つ一つの段階で、丁寧に過去を回顧し、将来・未来をしっかり展望して行ったのです。 私たちも主日礼拝において、過ぎ去った一週間を回顧し、今、将に来たらんとする次ぎの主日までの一週間を展望しつつ、週日の日々、丁寧にまたしっかりと一歩一歩前進して行くのです。
 過去を回顧し、未来を展望しつつ歩みを重ねる神の民の歩み、この神の民の歩みを、日本バプテスト連盟佐賀バプテスト教会の牧師であられた、加来国生先生は、鉄道の保線区で働く保線夫のようであると説いておられます。
 少し恐れています。「保線夫」ということば、きょうびのTCUの学生諸君に分って頂けるかなと。
 「保線」の線は、線路のことです。「線路は続くよ、どこまでも」の線路です。線路を、列車の運転に支障のないよう保守、管理する、そのことを保線と言うわけです。安全で円滑な輸送を確保するために、線路の構造、機能を維持管理すること、これが保線です。そして保線のために働く方を保線夫と呼ぶのです。保線作業の種類は、極めて多いのです。 保線夫には、線路全体への揺るがない信頼があります。線路全体に対して信頼のない中で、保線の仕事なんか出来ません。列車が出発する駅、その出発点からずーっと、今、自分の目の前までちゃんと線路が続いている、この確信です。そして今、自分が受け持つ区間。保線夫は線路を初めから終わりまで全部を自分たちだけで担当するわけではないのです。保線区と言って、割り当てられた一定の区間があります。この区間に対し責任を持ち、この分の責任を果たすのです。
 自分が受け持つ保線区を過ぎて後も、この線路は続き、必ず目的地へ着く。この確信があるからこそ汗水流して働き、責任を果たすのです。自分が責任を果たさなければ、他の保線区の同僚の働きに大きな躓(つまず)きを与えてしまいます。また自分がどれだけ忠実に分を果たしたところで、他の保線区の保線夫が忠実に役割を果たさなければ、自分の働きは無に帰してしまう。他者に依存され、他者にに依存する存在、それが保線夫なのです。そうです。保線夫は全体を担うなど決してできない。またできていると錯覚してはいけないのです。また自己の役割を卑下することも許されないのです。
 私たちも、保線夫的自覚を与えられています。天地創造から新天新地へ向かう主なる神様の救いの歴史。新天新地を思うと、私は胸が熱くなります。「それはよく分かるけど、今晩のおかず何にする?」との一声。このコンビでなければ、沖縄で十五年生きて来れないのです。
父、御子、御霊なる神のご統治のもと、新天新地へ向かい万物に及ぶ、この驚くべきご経綸。静かに確実に進展する救いの歴史の中で、私たちのような者にも、分に応じた短い保線区を委ね、保線の役割を与えてくださっているとは。
 極めて多い作業を含む保線作業、そのことごとくは、実に地味な目立たないものです。汗と見えざる涙を流し、一歩一歩地道に役割を果たします。そして、聖霊なる神ご自身の列車が通過するときには、保線夫は身を隠すのです。あくまでも線路が中心、列車が中心なのです。 、
[3]先輩保線夫、ドナルド・E・ホーク先生に学ぶ
 キリスト教学園の過去を保線夫という切口から回顧し、保線夫的生き方の視点から見て行くとき、一人の先達保線夫の姿が浮かび上がります。この方から学んだ、また学びつつある小さな経験を証したいのです。 先達保線夫、その名はドナルド・E・ホーク。皆さんのお手元に配られている、創立記念プログラムの「学園の歩み」(概略)には、「1955年4月、宗教法人ゼ・エバンジェリカル・アライアンス・ミッション立として、各種学校、日本クリスチャンカレッジ開学」との記述の後に、「校長:D・E・ホーク」と記されている人物です。同じく「学園の歩み」には、「1966年4月東京キリスト教短期大学設立」に続き、、「校長:D・E・ホーク〜1975年3月」とあります。私たちは学長と呼ぶのが普通でした。幾つもの制約を痛感しながらではありますが、三つの時に垣間見た、保線夫としての生き方について、それもあくまで私の目に映った限りの姿について、お証ます。

(1)現在、そしてこれから。
 一番最近、この秋にホーク先生から頂いた手紙に、「一日を始めるに当たっての祈り」、また「私の信仰の祈り」と、二つの祈りの言葉が同封されていました。
 第一の「一日を始めるにあたってのいのり」は、1662年のカモン・プレイヤーに基づくものです。
 第二の「私の信仰の祈り」は、キリストの死と復活に堅く立ち、日々、主に従う者の祈りです。先ほど賛美しました、笹尾鉄三郎先生作詞の聖歌722番、そして後ほど共に賛美したいと願っております、同じく笹尾先生作詞の聖歌733番。二つの聖歌の一節、一節に見事に証されている、日々主に従う者の祈り、ホーク先生の祈りは全く同じです。
 ホーク学長は、私どもが日本クリチャンカッレジの一年生であったとき、「ノーバイブル、ノーブレックファスト、聖書を読まずに朝飯食うな。」、そう教えてくださいました。あれから、四十年余が経過している今、日々の祈りの実践を身をもって教えてくださっているのです。これこそ、保線夫の生き方。加来国生先生が「朝の祈り、それが、私の牧会のすべてだ」と教えてくださった恵みに、それは深いところで通ずるものです。
今回のお便りでもう一つ胸を打つことは、手紙の宛名の文字です。記憶の衰えと戦いながら二冊の本を書き続けている生活を伝える手紙。その宛名の文字は、明らかに手の震えと懸命に戦いながら書かれた違いない。制約が厳しければ厳しいほど、その只中で、何も出来ないわけではない、今、このとき、この場で与えられている力の限りをつくせと、四十年以上前の一学生に保線夫の生き方を伝授する。口述筆記されたと思われる手紙本文の美しい字体とは全く異なるみみずが這っているような文字、その文字を通し確かに伝わって来る気迫を私は残る生涯忘れることができないでしょう。ガラテヤ人への六章11節のパウロのことばと共に。

(2)一九九七年五月。
 その年の五月の末、私はアメリカの母校卒業三十年記念の同窓会に出席しました。マサチュッセッツ州ケンリッジの母校に行く前に、引退してフロリダで住まわれるホークご夫妻、そしてもう一人の恩師、私ども夫婦を息子、娘と読んでくださる、ロージャー・ニコールご夫妻を訪問する計画を立てました。
 五月二十八日(水)にホーク先生の所につくと、ホーク先生は、「前の週に風呂場で足を滑らせ、胸のところを打ってしまった。ニコール先生のところまで、遠距離自動車を運転するのは無理だ。」、そうニコール先生に伝えてあると話されたのです。
 その結果、生涯二度とはないに違いない四日間を私は過ごすことになりました。朝六時前になると「タケオ」と、ホーク先生が声をかけ、部屋のドアをノックしてくださり、散歩に出掛けるのです。まずミルクティーを一杯飲んで、出発。一度外へ出ると、これが胸をに打って痛み長距離運転をできない人なのか疑いたくなるほど早足で、引退した方々が悠悠自適の生活をおくっている美しく広々としている施設、その周囲を囲む遊歩道を歩くのです。歩きながら、会う人々に「ゴッド・ブレッシュ・ユウ」と怒ってるのかと訝りたくなる勢いで、声をかけるのです。
 あの四日間、朝となく昼となく、そして夜も。私の生涯において、一人の人とあれだけ長時間連続的に話を聞いたり、話をしたことは、後にも先にもありません。ミセスホーク先生の話しによれば、こうなので「この美しい施設にいる周りの人はみな、ゆっくり引退生活を楽しんでいる。けれどもミスターホークだけは、頭の中も心の中も燃え続けている、それを受け止める話し相手がいない。あなたよく来てくれた。」と、昔と変わらない明るさで、それでもしみじみと話してくださるのです。何はともあれ、あの四日間のことを忘れることはできまん。先輩保線夫から、過去をどのように回顧し、また将来を展望するのか、年を重ねたご自身の存在そのものを通し教えられる貴重な経験でした。
 私はと言えば、主に二つの事を話しました。私なりの過去の回顧と将来への展望として。

①第一は、日本クリスチャンカレッジ、TCCの卒業生。
 私の限られた知識、しかも自分が直接係わりを持つごく限られた分野に過ぎないと制約を承知の上でも、クリスチャンカレッジのビジョンを卒業生たちは実現している事実を見ると私なりの確信をホーク学長に伝えたのです。特に神学教育の現場に従事しているいる卒業生たちの幾人かについて。
関西学院神学部のM兄。アウグスティヌスの専門家として高く評価されている彼が、沖縄で牧会に従事している卒業生を問安されたことがあります。卒業生を個人的に訪問し、広く多くの人々に開かれた講演会で話しをするM兄の姿に、外ならない日本クリスチャンカレッジのスピリットを私は見る思いがしました。M兄から溢れてくるスピリット、それは私たちの共通の場である、あのクリスチャンカレッジで与えられたものではないかと。
 神戸改革派神学校で、長年に渡り良き働きを続けておられるT兄。彼から私のような異なる教派の者にも伝わってくるのは、改革派教会神学というより、改革派神学、さらには聖書神学を体現している清々しさです。その事実のうちに、私はやはりクリスチャンカレッジで伝授したエトスを見るのです。
 国際キリスト教大学のN兄。彼は本務校でよき働きをしているばかりでなく、東京神学大学でも新約学の授業を担当していると伝え聞きます。このTCC卒業生が、二つの教育機関で、若き日に国立の学園で体得したスピリットをもって、良き神学教育を継続されていることを覚え、感謝するのです。一九六九年四月、新米教員として最初に教えたTCCの授業で出会って以来、アメリカの同じ母校で学んだこともあり、彼の歩みを熟知する者として、彼自身を含めて誰がなんと言っても、クリスチャンカレッジの良きスピリットが彼の心の奥深く刻まれていると私は断言して憚らないのです。
 小さな沖縄聖書神学校でも、四名のJCC、TCCの卒業生がそれぞれの立場で喜んで仕えています。
 こうしたことをホーク先生と話し合いながら、学長が人生の夏の盛りを注ぎ込んだクリスチャンカレッジのビジョンは、私たちの思いを越えて、深くばかりでなく、広く実現していると熱っぽく話す私。ホーク学長は、これらの流れを知らなかったとしながら、心深く何事かを噛みしめておれるように、私には伝わって来るのでした。

②第二は、渡辺公平先生、そして組織神学
 あの四日間、私からの話題のもう一つ。それは、渡辺公平先生を通し学んだ組織神学が、信仰生活のバックボーンとして自分の生涯にとりどれほどのものであるか、この点をめぐるものです。これは、単に私の個人的な経験ではない。牧会の前線にある牧師たちにとり、クリスチャンカレッジで学んだ組織神学が、各自の戦いの場でどれほど重要な意味を持つものとなっているか。横浜地区の有志の牧師たちが、九十歳になられる渡辺公平先生をお招きして、月に一回学びのときを続けている一事からも、それは明白だと私はホーク学長の目を直視しながらに話しました。
 JCCやTCCが目指したスピリットと神学は、それが聖書に堅く根ざすが故に、クリスチャンカレッジのビジョンと同様に。深くそして広く、この日本の歴史の中に、今、そして将来、実を結び続けて行く。
一九九七年五月二八日〜三十一日の日々。それは。キリスト教学園を一つのモデル・窓として、世界宣教における神学教育の在り方を展望し、今一度心を熱くする機会でもありました。その当時発足準備をしていた、日本センド派遣会。そのの開拓的働きを通しても、日本から神学教師をセンド国際宣教団の大きく開かれた世界の各地のフィルドに派遣して行けたらと、その幻についてもホーク学長と話し合ったのです。日本クリスチャンカレッジ建学と同じスピリットと神学をもって、日本から神学教師を世界宣教の場に送り出せたらと。

(3)身を引く保線夫の姿から。
 保線夫ドナルド・E・ホークから学んだ三番目のこと。それは、保線夫がどのように身を引くか、また保線夫が何に胸を痛めるかということです。一九六九年四月から一九七五年三月まで、ホーク学長のもとで、一番若い教師として日々を過ごし得たこと、今にして思えば、やはり深い恵であったと悟るようになりました。最後のころは留守がちであったホーク学長。それに何と言っても、あのような時代的背景の中でのことです。ある日担当チャペルでの宣教の後、「ホーク学長に対する挑戦状ですね」と、或る方から言われたことなども記憶します。こうした雰囲気の中で、保身でなく、保線に生きる者の生き方を、私はホーク学長から学んだと今は理解しています。特に二つの具体的な事柄をめぐって。
 
①一つはこうです。
 私の聞き違いでなければ、ドナルド・E・ホーク学長がTCCの学長を去るに当たって言われたことです。
 「今、同盟の中で、同盟聖書学院を再び建てる意見がある。それは、自分が教派教団を越えたクリスチャンカレッジを目指した目的を否定することになる。自分が身を引いてTCCが本来の道を歩み続ける、その道を選ぶ」と。これが、私が聞いたと記憶する限り、ドナルド・E・ホークの保線夫としての言葉です。
 
②もう一つは、
 聖書神学舎・聖書宣教会に関わることです。
 「聖書神学舎の三人の設立者の一人である自分は、今や全く発言する機会を与えられていない」と。保線夫の心の痛みです。
 過去を回顧する。勿論、この場で、一人の貧しい者の記憶に頼って、全体を回顧することなどできません。しかしこのごく制約された中であっても、クリスチャンカレッジと神学校(セミナリー)の関係、それをどう見るのか、どうするか、この総論的な課題は、四十年来この課題を考え続けてきた私は、避けて通れません。具体的には、聖書神学舎・聖書宣教会と東京キリスト教学園の関係、これを正直に回顧する。「正直」とは、あったことをないことにしたり、ないことをあったことにしない。簡単明瞭なことです。しかし自らのうちなるものと聖霊ご自身の導きにより戦いつつ、それを公的に表して行く公的な戦いの道であり、確かに厳しい道です。しかしこのこととなくして、学園の設立を記念することはできず、避けて通れないと考えます。

[4]結び
 今朝、幾つもの制約の中ですが、「聖書で」東京キリスト教学園の歩みを、保線夫という一つの切口からごく限られた回顧を試みて来ました。最後に、二つの点に絞り、誤解を恐れずに、展望することが許されるなら、感謝であります。

(1)一つは、聖書神学舎・聖書宣教会と東京キリスト教学園との和解、一致です。
 六月二七日から三十日まで、日本伝道会議が沖縄で開催されました。福音にある和解というテーマです。その最初の集会、そして、最後の集会では、東京キリスト教学園と神学舎・聖書宣教会、二つの神学機関の責任者がメッセージを取り次いでくださいました。その責任者が語ったことを身をもって示す責任と特権が、ご両人ばかりでなく、両機関に直接、間接属する者にはあります。神学舎・聖書宣教会と東京キリスト教学園が、心底和解と一致の実を示し続け、それぞれに三多摩や千葉の地域に堅く根ざした神学教育を実践し続けることは、今回の日本伝道会議を開き、最も重要な責任の一端を担われた方々の義なる務め、義務ではないでしょうか。またお二人の指導者のもとで生きる共同体に直接、間接かかわる者の責任であり、特権であります。
 発言、宣言とその実践の課題は、いつも私たちが直面する課題です。私は、日本福音キリスト教会連合に属する教会の一員であり、牧師であり、この事実を感謝する者あります。私どもの群れも、戦後五十年を迎える中で、第二次世界大戦における日本の教会の罪を告白する文書を公にしました。その文書の重みを受け止めたいと願う一人として、足元の課題を無視できないのです。
 日本キリスト教団がその戦責告白をなした際、その痛みの中にある教会を対岸の火のように見て、はばたく福音派と私たちは言って来てしまったのではないか。その流れの中に属する私どもは、戦後の日本キリスト教団との生きたかかわりを持つことなく、その兄弟の痛みを真に担う意識を持たずに来たのではないか。それなのに、「教会の唯一のかしらであるイエス・キリストの名のもとに歩められた公同の教会の枝として、日本の教会に結び会わされてい」るとして、第二次世界大戦とそれに至る過程で日本の教会が犯した罪責を告白するのです。それでは。真に悔い改めとはどのように生きることなのか、この課題に直面します。
 さらに戦後の教会の歴史を背景に、日本福音キリスト教会連合の誕生までの経過、その成立後の歴史をどのように捉え、どのように見るか、いかに自らの歴史を回顧し展望するか、この足元の課題に直面しようとしないなら、戦前の既に死んでもの言わぬ人には勇ましく、同時代に生きている人には尾っぽを巻いていると言われてもしかたがない。日本福音キリスト教会連合の一教会に属する者として、戦責告白をめぐり心に問われることなのです。
 日本伝道会議、また然りです。日本伝道会議が真に実を結ぶことを期待するなら、二つの神学機関は、和解と一致を目指すべきと私は見ます。保線夫ドナルド・E・ホークが、いまだ壮年時代に、「聖書神学舎の三人の設立者の一人である自分は、今や全く発言する機会を与えられていない」と言ったのを聞いたなどとは、戯れ言または暴言なのか。
ほとんど同時期に進行し進展した、三神学校合同と日本福音キリスト教会連合の誕生の経過に同時に身を置いた者たちの一人として、いうところの和解は、まず二つの神学機関から始められるべきだと心より願うのです。そうでなければ、お二人の指導者がわざわざ沖縄まで来られて、和解の福音を語られた意味はどこにあるのか、そう自問せざるを得ないのです。
 最後にもう一つ、保線夫の生き方から学ぶことがありあす。それは、とにかく地域に根ざすことです。東京キリスト教学園が、「千葉から」とスローガンの中で明言しているように、実際にも徹底的に千葉に根差す。いつの日か、本当の千葉を知りたければ、千葉県庁よりは、東京基督教大学に行くべきだと人々をして言わしむ。本当の千葉の姿、それは聖書で千葉を読みつつ資料を集め、資料を集めつつ聖書で千葉を読む基督教大学が見抜くと。
 同様に、三多摩についても、御獄神社に見られる山岳宗教の日本歴史・社会への根深い影響の実態とそこからの解き放ちは、三多摩を聖書で読む、聖書神学舎の出版物に明示されていると。
 保線夫ドナルト・E・ホークが、戦後教派ごとにバラバラに建てられつつあった神学機関を、それなりに一つに結集しようと目指していたことは確かです。しかし今や、たとえばクリスチャン新聞の神学校特集を見るならば、なぜ、どうして、こんなにと思わされるほど、多種多様な機関が存在します。その現実を積極的に評価できる点があるとすれば、その一つは、地域に根差そうとする神学機関の姿です。関西は勿論のこと、北海道、東北、北陸、東海、四国、九州、沖縄、私が全く知らない多くの場所で、それぞれ真剣に教会形成を考える人々が、その保線区でで生きた神学教育機関を建てようとする、これは必然です。こうした現状の中で、二つの神学機関が、相手の喜びを喜びとしたり、痛みを痛みとする言及が一切ないような印刷物を各地の教会に送り、学生募集を争う、そんな図式が見えることでもあれば、それは、寂しいことです。
 今、東京キリスト教学園の五十年を回顧し、将来を展望するに当たり、保線に生き、聖なる公同の線路・教会のため身を捨てる一事を、あの先達保線夫から学びたいのです。
 一言お祈ります。
「父なる神様、制約の中で、何とかして聖書を、何とかして聖書でと願う者です。またその営みにおいて直面する、御旨と現実のギャップに苦しむ者です。しかし主がこの学び舎を建て、学び舎を支え、この学び舎を用いてくださるお方ですから、主よ、ご自身のご栄光が、この学び舎を通しても現わされますように。主イエスキリストの御名によってお祈りします。アーメン」