市川治平元大佐(陸士三七・陸大四九)、わが伯父と私  その5、「ただ市川参謀のみが…」、後出しじゃんけんでなく

市川治平元大佐(陸士三七・陸大四九)、わが伯父と私 
その5、「ただ市川参謀のみが…」、後出しじゃんけんでなく

 台北会議において、市川治平元大佐(陸士三七・陸大四九)のみが発言したとの記録に、わが伯父ながら共鳴するのです。
 沖縄戦最終段階での台北会議については、1986年4月沖縄へ移住して程なくして知りました。その後気になり続けていましたが、昨年末弟三郎牧師から一冊の本を見せてもらい、少しづつ読み進め、それなりの判断を持ちことができるようになりました。
 一冊の本とは、中公文庫『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』です。
 日本軍の失敗の事例研究6つの一つとして、「6沖縄戦ー終局段階での失敗」が取り上げられています(222−261頁)。報告の中で、沖縄側の八原大佐と台湾側の市川参謀のとの発言をめぐる態度が対照的です。
 台北会議出世区に先立ち、牛島司令官や長参謀長に八原大佐は意見書を提出後、沈黙するよう強く戒められていたのです(227頁)。会議の席上、八原大佐は訓示に従い、発言することなく沈黙を守ったのです。

 これに対して、わが伯父については、「ただ市川参謀のみが、台湾防衛の重要性と兵力不足を訴えた。彼の主張は、第三二軍は第一〇方面軍の隷下にあるのだから、方面軍司令官にその兵力運用を裁量できる権限がある、といわんばかりであった」(229頁)。
 また、「戦後、八原大佐は『軍の運命を決するこの重大な会議に、一言もいうべきことをいわなかった自分の態度に、なんとなく悔恨のが残る』と述懐している」(229頁)。

 「いわんばかりであった」とか、八原大佐の述懐には、私から見ると後出しじゃんけん的です。発言するべき時と場で、「ただ市川参謀のみが…」と記さているわが伯父に、共鳴を覚えるのです。