「わたしの『死』について考える」、20余年前沖縄で、今関東で再確認

「わたしの『死』について考える」、20余年前沖縄で、今関東で再確認

★1995年、沖縄で以下の学びをしました。今、関東で再確認。

婦人会交わり会
「わたしの『死』について考える.」
95年11月2日(木)午後8時半
首里福音教会・学生センター
[1]序
(1)私たちは年を重ねるに従い,さまざまな死を身の回りに見聞きして来ている.すべての人の死,そしてわたしの死は頭だけの知識ではなく,全身で感じるようになって来ているのではないでしょうか.

(2)昨年の天願悦子姉,今年の又吉幸子姉と首里福音教会婦人会会員の召天を通して,それぞれが様々のことを考え教えられている.その中で,今回のような,「わたしの『死』について考える」とのテーマが選ばれたと思います.

(3)私がこの題で話すように頼まれたのは,聖書が「わたしの死について」どのように教えているのかをお伝えし,それぞれが「わたしの『死』について考える」材料を提供するように期待されているからと判断します.

[2]旧約聖書新約聖書を通して
(1)いのちの源,創造者なる神ご自身
 死ばかりでなく,人間・私について聖書が教えていることの土台は,創世記1ー3章.人間は,神のかたちに創造され(創世記1章27節),神との交わりのうちに完全ないのちが与えられ,生けるものとされた.いのちは神の賜物.人間の生も死も神の御手のうちに.

(2)本来の神の交わりから,人間は神のことばに逆らい,背を向けた.この神からの離反が死をもたらす(創世記2章17節,3章19節).死が肉体の死としてばかりでなく,神からの離れるという意味(申命記30章15ー18節,イザヤ38章18,19節).

(3)死に打ち勝つ救いは,神のみから.旧約聖書を通して指し示されている救い(イザヤ25章8節,26章19節など)は,主イエス・キリストにあって成就.

[3]主イエス・キリストにあって
 人間・私の本当の姿は,真の人となり給うた真の神である主イエス・キリストご自身において明らかにされている.
(1)主イエスの十字架の死により,罪と死は打ち破られ(ロマ5章17節,Ⅰコリント15章26,45ー47節),主イエス・キリストの勝利により解き放たれる(ガラテヤ5章1,13節).

(2)主イエスの死と復活に結ばれ
 主イエス・キリストを信じる信仰により,死からいのちへ(Ⅰヨハネ3章14節).主イエス・キリストの死と復活のいのちに結ばれる(ロマ6章3ー11節).地上での生活・生涯は,主イエスの死にあずかり,初穂としての主イエスの復活にあずかるものとしのもの(Ⅰコリント15章42ー44節,ガラテヤ2章20節).

(3)生涯の最後に迎える肉体の死は,終わりでなく,主イエスの復活に完全にあずかる始まり.この約束に立ち,地上での一切の努力が決して無駄でないことを知る(Ⅰコリント15章58節).
 
[4]結び
 以上のことから,わたしの『死』について,少なくとも三つの点から考える必要があるのでは.
(1)主イエスの死によって,わたしの死・罪の代価が支払われている恵みの事実.

(2)わたしの死に訪れる死は最後であるばかりでなく,主イエスとの親しい交わりへいれられる勝利の教会へ移されるときであり,はじまりであるとの希望.

(3)地上での日々は,主イエスの十字架の死の恵みの事実に立ち,死を越えての希望を目指す歩み.すべてのことが無駄でなく,すべてことを通して一般的な最後であり新しはじまりに備えて行くと共に,特別な意味での備え.家族・友人に対して,葬儀について,自分の死後残された人々について.