恵みのバトンタッチに感謝して、その1

恵みのバトンタッチに感謝して、その1

★先週5月9日、万代恒雄の召天日と栄嗣先生のコメントを読みながら,恵みのバトンタッチについて思い巡らしました。

万代栄嗣→
 本日、5月9日(月)は、私の父、万代恒雄の召天日です。
1994年5月9日に、満64歳で召されました。それから24年の時が流れたことになります。毎年の召天日には、松山福音センターの兄弟姉妹たちが、教会の墓地にまで共に出かけてくださり、小さな記念会を持っています。

●息子の私が言うと何ですが、日本のキリスト教界にあって、真に稀有な伝道者・牧師であったと思います。その発想のユニークさや面白さ、抜群の行動力、伝道への情熱と無類の人の良さ、どこを切っても金太郎飴のようであれ!とみんなを鼓舞していた揺るがぬ信仰、力強いメッセージ、社会の常識や人の固定観念にとらわれない、世界にまで飛び出して行く大胆さ…と、本人の思い出を語れ!と言われれば、いくらでも出て来ます。牧師となった私は、いつも叱られ続けていたのですが、しかし、牧師・伝道者としての万代恒雄は、本当に魅力に溢れた人格でした。

●最期は、わずか2日間の入院で天に召されましたが、本当に最後の最後の一瞬まで、日本の福音化、リバイバルの実現を祈っていました。親子としての会話をするでもなく、何か遺言めいたものを口にするでもなく、最後までリバイバルへの情熱を口にしていました。
 もちろん、人生の歩みにおいては様々な試練や問題もありました。人からの誤解やバッシングを受けて、さぞ無念だろうと感じたこともあります。しかし、人間的なくだらない話題にはあまり関わろうとせず、常に、神様によって前に置かれているものを追い求めていました。そんな凄まじい伝道者の生涯を、私は、間近に見て、共に体験させていただいたことを、心から感謝しています。

宮村 武夫 →
 24年の時が流れた実感ありません。特に50数年ぶりで小岩に戻った今、数杖を突きつき町を歩いていると、「やあ、宮村君」と、声を掛けられそうです。小岩、20代の神学生だった先生に、10代の高校生だった私が出会い、導かれた場所です。

万代栄嗣→
万代栄嗣 はい。父の信仰のイメージは、全く古びません!感謝です。(^_^)

宮村武夫→
 高知と言えば、1957年、あれは何月だったでしょうか。
 春から初夏の頃、須崎から松山まで、古い漁船を曳航する船旅に同行したことがあります。万代先生と、機関士と言う売り込みの方と後2,3人の乗り組みでした。
 足摺岬を通過し、かなりの船酔いに苦しんだ時点で、エンジンがストップ、船が次第に陸地から離れて流される状態になったのです。
 
 その時は、それほど不安ではなかったのです。後になって知らされたことは、自称機関士の方の知識はごく限られてもので、エンジンが復調したのはしたのは、まさに・・・だったとのこと。
 瀬戸内海に入ったとき、潮の流れ5ノットのところを、6ノットの船足で進んだ、5と6の数字を今も覚えています。
 「宮村君、イエス様のためなら、悪いこと以外何でもやろうな」との言葉、土佐の高知における実践ではあったのです。

万代栄嗣→
 本日、5月14日(月)は、朝イチの飛行機で松山に戻って、日本福音宣教会の教職者ミーティング。いつもの会議の内容に、今夏の全国聖会への準備の打ち合わせも…。そして、来年の会場などの話題も出始めておりまして。・・・

宮村武夫→
 全国聖会、25回目になりますか。
第1回の時、矢野姉を通して恒雄先生から招きを頂いたのですが、都合がつかず参加できませんでした。その後の様子、『落穂』誌で知り、感謝しています。
 二人万代の働きの特徴は、松山郵便局私書箱番号に象徴されるように、地味な継続であると私は理解しています。そして今や継承。25回夏季聖会の上に、祝福が豊かにありますように。

万代栄嗣 →
 はい。とにかく福音宣教のためには、できることは何でもやる!という姿勢をいつも貫いていた父でした。(^_^)