宮村武夫著作4『福音の力と事実 テサロニケ人への手紙第一・第二、 ガラテヤ人への手紙、ペテロの手紙第一』 著作あとがき    聖契神学校校長/鄕見聖契キリスト教会牧師 関野祐二

宮村武夫著作4『福音の力と事実 テサロニケ人への手紙第一・第二、
ガラテヤ人への手紙、ペテロの手紙第一』
著作あとがき   
聖契神学校校長/鄕見聖契キリスト教会牧師 関野祐二

「徹底的に愛される」 
 すべてを打ち明ける親友もいなければ、ぞっこん惚れ込む追っかけ恩師もいない。ほめことばよりも心に刺さることばをいつまでも記憶し、それをバネにして独自路線を歩む、そんな人生だったように思う。人づきあいの悪い、ひねた性格と言ってしまえばそれまでだが、これが自分なのだから仕方あるまい。時系列に並べるなら、「おまえは冷たい」「荒れた教会から良い献身者は出ない」「あなたは牧師に向いていない」「高慢だ」「ご専門は何ですか」などなど。それでもこれまで辞めずに三〇年近くキリスト教界でやってこれたのは、もしかしたら「福音のパラドックス」に望みと期待をかけ、こだわってきたからなのかもしれない。つまりそれは、「低い者が高くされ、貧しい者が富み、何も持たない者が豊かに与えられる」という、福音の新しい時代に内包された逆転の法則である(ルカ一・四六―五五参照)。その最たるものが「罪人が義とされる」とか「一方的に愛される」事実だろう。これさえ握っていれば千人力。どれ程自分に失望したとしても、人の評価が低くても、そこから立ち上がることが出来るではないか。ただし、主イエスにあって、だが。

 数年前、ある牧師からこう言われた。「あなたは留学経験がないからいい。恩師がいないので、その恩師の考えに縛られず歩めるからだ」。地域教会の平凡な牧師から、都心にある神学校の責任者へと呼び出されて一五年。当時の校長に「ノンタイトルでもいい。学生とうまくやっていけそうだから」とおだてられて引き受けたものの、自分に何ら学識がなく、専門も学位もないことからくる居心地の悪さとの戦いであった。置かれた場所で咲きなさいとの渡辺和子流人生訓、神の摂理の確かさ、自分よりも頼んで来る他者の眼力に信頼すべきこと、そうした諸要素を組み合わせ何とかしのいで来たが、ないないづくしがメリットになるという最近のおだてことばは衝撃であった。珍しく、素直に心に残った。

 湿った独白のようになったが、そうした恩師不在の文脈に、宮村武夫師とのかかわりをどう位置づけようか。孤高の存在すぎて、神学校在籍時代にそれほど個人的なつながりがあったわけではない。尊敬はしていたが、例によって距離を置きたくなる性格ゆえ、自分を売り込むようなことも、ことさらに「恩師」と祭り上げることもしなかった。しかし、卒業後も不思議に細い糸はつながり続け、集会や研究会などでお会いする機会に事欠かず、どの人にもそうなのかもしれないが、深いところで信頼関係が保たれていることを感じた。そんな、これまでの宮村師とのかかわりを三つにまとめてみようか。それは、原理主義克服のコツを教えてもらったこと、フィー&スチュワートの解釈学テキストを薦めてくれたこと、そして聖契神学校チャペルタイムのショートメッセージである。

 原理主義の克服、それは校長就任の翌年二〇〇四年から強引に引き込まれた、JEA神学委員会の取り組みであった。長くなるが、請われてメールマガジンに書いた拙文を以下に引用しよう。タイトルは「原理主義的傾向を克服するために」で、当時の文脈は、九・一一に端を発した米国の様相と、それを受けての二〇〇六年二月の神学委員会ブックレット「原理主義」発行である。文中のM師とは、言わずもがな宮村武夫師のことだ。
 2字下げにします。『筆者が神学生の頃、尊敬していたM教師が口癖のように言っていたのは、「一部をもって全体と考えてしまう誤りの危険」だった。相手の中に誤りや受け入れ難い点が見えた時、それをもって相手全部を否定/拒否し、そこに含まれていたはずの真理をも捨て去り、対話や交流を断ってしまうことへの警鐘であり、同時に自分とは立場の異なる考え方や神学の中にも、必ず何がしか聞くべき真理が含まれていることを教えることばであった。
筆者の生まれ育った教会と所属する教団は、JEAに属する福音派教会の中でも比較的幅の広い、多様性に富んだ伝統と気風を有している。かつて新生した前後、当時の福音派諸教会に吹き荒れた聖書論論争や聖霊論論争の強風にもまれる経験をし、同時に所属教会の分裂や争いの渦中に置かれた。生まれたばかりの乳飲み子としてはおよそ過酷な環境の中で苦悶する中、福音的であるとはどういうことか、堅持すべきものとそうでないものの見極めはどのような基準ですべきなのか真剣に考えさせられたことを、M師のことばは筆者に思い出させた。そして、母教会と母教団にその一員として置かれた摂理を肯定的に受け止め、福音的立場を堅持しつつ、決して狭い閉鎖的立場に自らを閉じ込めないようにすることが、その後の筆者の課題となった。
一九九○年四月、新米牧師として牧会伝道の荒波に漕ぎ出した。それから五年目、所属教団立の神学校で新約学の科目を担当するよう命ぜられ、新約通論はともかく、新約緒論で何を教えるべきか思案にくれていた頃、G・ラッド著『新約聖書と批評学』(聖恵授産所出版部、一九九一年)に出会った。これは、まさにあのM師が力説していた真理(格言?)を、ラッド教授が新約学の分野でリベラルな聖書批評学を相手に実行した本であり、読み進めるにつれその画期的内容に心が震えた。曰く、現代福音派の聖書学はリベラル神学から多くの恩恵を受けており、その事実を知らずにリベラル批判一辺倒と対話の拒否にとどまってはならない、選択的にその神学的成果を受け入れ、そこから学び、対話を継続し、広い視座に立って福音的立場をより堅固に構築するべきである、と。この書を軸に、福音的聖書批評学を学ぶクラスを立ち上げることにしたのは自然な成り行き、いや主の導きであった。
 以来、約十年の歳月が流れ、二〇〇四年九月よりJEA神学委員に加えられて、原理主義福音主義の共通点と相違点を研究調査する機会を得た。携わってみてわかったのは、このキリスト教原理主義への対応とはまさに、何が本質的事柄で何が枝葉末節の事柄なのか、両者を峻別した上で受容と対話を継続するセンスを獲得する、そうした全教会的必要性を明らかにすることだという事実である。筆者が新生した頃、福音派内に存在したあの論争の数々は、そうしたセンスを身につけるため福音派に摂理的に与えられた、いわば産みの苦しみだったのではないかと思う。あのM師の格言を活かすべく、新約緒論のクラスを担当し続ける中、果たして福音派諸教会はそのセンスを地方教会の信徒レベルで身につけて来たのか、大いに考えさせられる十年であった。
 そして昨今の米国を中心とするキリスト教原理主義の問題である。調べてみて驚いたのは、この問題を正面から扱っている福音派からの日本語文献がほとんど皆無であること(だから神学委員会で小冊子を発行する必要性があるのだが)、その結果として当然のなりゆきとも言えるが、米国直輸入の原理主義的傾向を帯びた文書が、健全な議論や検証を経ないまま、諸教会に流布している憂えるべき現状である。そして、主流派(リベラル)による米国キリスト教原理主義批判は当然としても、同時に主流派の低迷と凋落への危機感が主流派内部で高まっており、福音派の台頭に脅威(ある種の敬意も)を抱いていることも、数十年前では考えられない現実である。よって、今日本の福音派キリスト教原理主義の問題をいかに扱い、その課題を克服して、健全な福音の拡大と教会の成長にどう寄与するかは、福音派諸教会に共通に課せられた、重大な責任であると言える。M師の預言的格言は、これからますます実行されるべき課題になるのではないかと思う。
 変えてはならないのが健全な福音の真理であることは言うまでもない。主流派に属しつつ、福音派に一定の評価を与え続けてきた稀な存在である古屋安雄氏は、近著「キリスト教アメリカ再訪」(新教出版社,二〇〇五年)で、主流派は自己批判をして謙虚に福音派の教会や神学から学ぶことで、キリスト教信仰の確実性を回復しなければ回復の道はないとの驚くべき主張をしている。その上で氏は、原理主義を克服した福音派が信仰の確実性を保持しつつ、主流派が志向した社会的関心を継承することのほうが、キリスト教会回復の可能性としては高いとも付け加え、主流派への失望感を募らせている。その一方、同書で古屋氏は、福音派キリスト教原理主義をほぼいっしょくたに扱い、ステレオタイプ的批判をしているが、そこで挙げられている批判は決して真実そのものでも解決できない課題でもなく、要はこれからの我々福音派の努力と姿勢にかかっているということである。
 キリスト教信仰の確実性の回復が、教会を回復する。まさにこれは福音派が願い、また堅持してきた確信であり、それを、原理主義的傾向を払拭あるいは克服しつつ実行していくことが、今の私たち福音派に求められている。この機会を逃すことなく歩んでいきたい。』

 次は、ゴードン・D・フィー/ダグラス・スチュワート『聖書を正しく読むために[総論]聖書解釈学入門』(いのちのことば社、二〇一四年)との出会いである。監修者あとがきに書いたのだが、神学校在学中に宮村師が聖書解釈学クラスで薦めてくれた本書の原書を、背伸びをし船便で輸入したものの、価値もわからず積ん読しておいたら、結果的に自らの担当する聖書解釈学クラスのテキストとなり、苦労して作成した粗訳をもとに全訳を依頼し、その監修を引き受けて邦訳書発行に至ったとの顛末。本書との出会いが聖書の読み方、ひいては信仰生活のあり方そのものに絶大なる影響を及ぼした。そして、及ばずながら粗訳と監修にかかわることで、その恵みを多くの方々に分かち合うことまで出来たのであった。宣伝になって恐縮だが、詳しくはこの邦訳書を入手し、読んでいただくしかない。
 そして、忘れもしないあのチャペルタイムである。二〇〇九年一〇月三〇日金曜夜の聖契神学校、保存してあった音声を聴き直してみたら、「押しかけ女房のように来ました」と始まる宮村師のメッセージは正味一○分、Ⅱコリント七・一―四からであった。パウロはコリント教会員に「私たちに対して心を開いてください」(二節)と懇願した後、「私には、あなたがたに対する大きな確信があり、あなたがたについて大きな誇りがあります」(四節)と持ち上げ、一六節に至っては「私はすべてのことにおいて、あなたがたに信頼を寄せることができることを喜んでいます」との驚くべき見解を表明する。これはパウロが先んじて「徹底的に愛する」ことを実行した証左。四つの神学校で学んだ宮村師は、「私のような者を教えてくれた先生方は、徹底的に愛してくださった。天地創造から主の再臨に至る救いの計画の全体像の中に、こんな私もかけがえなきひとつの場所を占めている、そのように主は私を見てくださる、その神学的な心を先生方から教えられた。教師が心を開いたから自分も教師に心を開いた。私が徹底的に愛されたことを、今度は私が徹底的に愛することで伝えたい。それを私は関野校長にしたつもりだ。だからこの神学校で皆さんは、徹底的に愛され、信頼される喜びを学び、遣わされた地でそれを自ら実行してほしい」と語った。以来、「徹底的に愛される」とのフレーズが福音の核心として心に刻まれた。生き方と福音が一体化し、それを次の世代へと伝える現場に立ち会い、バトンを渡されたのだ。
 宮村師を見ていると、無防備というか、リスクを顧みないというか、子どものような危うさと素直さで人とかかわり、「徹底的に愛する」人生に徹している。人間的な物差しでは、決して成功者の生き方とは言えまい。不用意に近づくのはこちらも火傷をしそうで怖い。しかし、その宮村焚き火の輻射熱には当たっていたい。調子が良すぎるだろうか。