聖霊論の学び OBS2001年秋期神学セミナー 2001年10月22日(月)、23日(火) 第三回 今から、徹底的な聖書信仰・徹底的な聖霊信仰から見る沖縄宣教
聖霊論の学び
OBS2001年秋期神学セミナー 2001年10月22日(月)、23日(火)
第三回 今から、徹底的な聖書信仰・徹底的な聖霊信仰から見る沖縄宣教
[1]序
年を重ねる恵み、五十年前を昨日のように。五十年年後を明日のように。
オリブ園を月一で訪問する恵み。私たち三人で三百歳と、明るく迎えて下さる三人からの慰め。
(1)人間・私として聖書を読む。聖霊、喜び、キリスト者・教会(本来の人間、私らしい私)。人間らしい人間、私らしい私として生かされる道。神を知り、神を喜ぶ道。 参照マタイ5章1-16節。
(2)徹底的な聖書信仰、同時に徹底的な聖霊信仰。
徹底的な聖霊信仰、同時に徹底的な聖書信仰
①徹底的な聖書信仰とは。
主イエスの受肉と聖書の存在の深い関係。聖書とは何かを考える際、主イエスの受肉を正しく、深く、豊かに理解する。その根底に、創造者なる神と被造物全体の関係をしっかりと心に刻む。与えられたときと場所にあって聖書を読む、と同時に聖書で与えられたときと場所を読む。私たちにそくして言えば、沖縄で聖書を読む喜び、と共に聖書で沖縄を読む喜び。あることを聖書で、それこそ神学。たとえば伊江島キャンプの神学、台風の神学、よろしくの神学など。
②徹底的な聖霊信仰とは、聖霊ご自身の働きを、聖書が教えているように、全体として見、感謝し、従う。
A。救いの御業の一部、特定のことだけでなく、その全過程においても。
B。教会の特定の個人だけでなく、教会のすべての人々にも。
C。救済論の領域だけでなく、創造論の全領域においても。また終末論的理解、すでにといまだ・やがてかならずの両側面。
[2]沖縄における教会と大学
聖書は、単に教会内だけではなく、全生活の全領域で道の光、足のともしび。主日礼拝に出席する者各自のどのような生活のどのような領域においても。
その一つとして、徹底的な聖書信仰・徹底的な聖霊信仰の立場から、沖縄における教会と大学、大学と神学校の関係を考えてみたい。本来の神学とはどうあるべきか、沖縄における宣教の神学を実践する手掛かりとして。
(1)大学を、そして沖縄聖書学園を聖書で読む。
天地の創造者、全能の父なる神を私たちは信じている。聖書は、そのお方の作品である宇宙、特に人間について与えられた創造者(メーカー)からの説明書。この事実のゆえに、聖書を通し与えられている創造者である神のご計画(グラド・プラン)を軽視し、まして無視して、宇宙、歴史、人間について、本当に理解することはできない。神の創造の御業である、ユニバース・宇宙。神の御業である万物の全領域を研究し、教育するユニバーシテイ・大学。本来の総合大学は当然神学部を、不可欠のものとして持つべき。
沖縄にはそれぞれの建学の精神をもって建てられた、二つの短大を含めた八つの大学。今後加えられるものを含め、各大学での研究と教育のため、沖縄の教会は祈り続けて行く責任と特権。
(2)沖縄聖書学園の使命。1973年沖縄信徒聖書学校設立という恵みが、現在の時点では、沖縄信徒聖書学校に加えて、新しく設立された沖縄信徒伝道者学校、1978年設立の沖縄聖書神学校と、それぞれの目的を持つ、三つの学校へと波紋のように拡がる。地域に根差し、同時に広く世界に開かれた神学の営みを沖縄聖書学園は目指す。沖縄の諸大学が持つべくして、持ち得ない神学部としての役割を自覚して。
来年、日本福音主義神学校協議会総会での発題のため祈りを。
(3)小さな経験
十数年年にわたり、宜野湾ナザレン教会の長田兄の技官室(電子情報)で、琉大聖研を継続。一時は、かなりの学生が集うときも。しかし全体としては、二、三名で聖書を読み、今の、そしてこれからの情報をめぐる一切のことがらを話し合い、祈りを継続。聖書で情報に関する事柄ついて考えることを大切にして。この歩みの中で、すべてのことにかかわる大切な二つのことを、深く教えられる。一つは、継続する覚悟がないことは始めない。次に始めたことは、継続する。この二点。
以上の恵みの場と共に、首里福音教会学生センター講演会を持ち続けて来た。礼拝の生活を営む各自が、それぞれの持ち場、立場で聖霊ご自身の導きにより聖書を読み続ける。その証を直接お聞きし、今度は私たちが各自の持ち場、立場において、そこに注がれた恵みを見抜くための実際的な教えを与えられ、励ましを受け、少しでも整えられることを目指して。
以上の営みを継続して来た中で、沖縄県立芸術大学のため、特に祈ることを今導かれている。「次郎さんの写真」のY姉が学んでいたこともあり、県芸のため祈り機会。しかし県芸において掃除の仕事をなさりながら、県芸のためにS老姉妹が祈りを継続。また新しい奏楽者のための教会全体の祈り。この二つが一つとなり、以下のように、祈りの方向を示されている。
来年の受難週の3月28日(木)、29日(金)、シュガーホールで、天田繋先生作曲、日本二十六聖人『長崎殉教オラトリオ』の上演予定。昨年の日本伝道会議を、沖縄で継承することを目指すもの。 その際、沖縄県立芸術大学との協力を基本方針として強く求めて来た。今、このコンサートにかかわる県芸の教授、学生、卒業生のための祈りの責任を自覚。。聖霊ご自身が、音楽の分野を含め、私たちのの全人格、全機能を導いてくださる確信に立っての祈り。また本当の音楽を求める人は、音楽を体現する人間・私とは何かとの問いに直面するに違いない。 本来の人間のあり方は、主イエスの救いによる本来の人間への回復によってのみ可能。人間らしい人間、私らしい私のうちから音楽が湧き溢れる恵み。聖霊ご自身の導きのうちに、その実現を求める祈りがコンサート実行委員会で、また実行委員会を通じて諸教会で積み重ねられることを期待。
さらにコンサート後も、月一の沖縄の全大学、各大学のために祈る集いが、まず十年継続されるように。大学のための祈りを通して、大学への宣教も着実に進展し、大学の神学も確立し展開することを確信。
[3]離島伝道、小さなモデルとしての伊江島の場合
徹底的な聖書信仰・徹底的な聖霊信仰にとり、どんなことの大き過ぎることはない。どんなことも小さすぎることもない。詩篇119篇105節が明示するように、みことばは、万物の創造から再創造までの一貫し、進展する道を照らし、私たちがその道を全体として見通し続けるように導いてくださる。同時に足のともしび。
沖縄に生かされる者として、本土と沖縄の関係で沖縄を見るだけでなく、本島と離島の関係で沖縄を見続ける必要があるのでは。離島伝道を真剣に考え、祈り、実践して行くとき、沖縄宣教はさらに進展、そして世界宣教へ人材を送り続けることが許されるに違いない。世界宣教への人材、それは沖縄で生まれ、育った人々ばかりでなく、沖縄の諸大学へ各地から学びに来ている学生たち。彼らは、いわばかもがネギをしょってく的存在。その意味でも、離島伝道が大学への宣教の意味を再確認さえ、世界宣教への道を開いてくれるもの。
伊江島主僕キャンプの十数年の実践。キャンプを続けつつ、キャンプの神学の確立。コンサルタント田頭真一先生のアドバイスを受けながら、回顧と展望。
伊江島主僕高校への祈り。
伊江島キリスト公会、全住民への絶えざる祈り、執り成し。全住民、全生活の全領域を見据える教会として。
聖歌576番と伊江島。
今、土地のための祈り、1,000坪の土地。
伊江島から伊是名、伊平屋へと展望。
[4]結び
Ⅱペテロ3章8節から13節、特に8節には、一日と千年について、印象的なことば。「一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」 「一日は千年のようであり」
「千年は一日のようです」
8節後半に見る鍵(キーワード)、「主の御前では」とのことばに意を注ぎ、聖書が時、時間、歴史、私の生活や生涯について、はっきり教えているメッセージを最後にもう一度心に刻みたい。
◆「一日は千年」
「まことに、あなたの目には、
千年も、きのうのように過ぎ去り、
夜回りのひとときのようです」(詩篇90篇4節)と、人間の命の短さを神の永遠性と対比させ、しっかり実態を見つめている。
Ⅱペテロ3章8節では、同じく「千年」を用い、神の時間の物差しと人間のそれとを比較し、神の約束実現に対する人間の期待の性急(せいきゅう・)さ・まだかまだかを対比。その上で、まだかまだかと性急さに浮足立つかと思えば、一転して、「どうせまだだ」と、だらだらと目の前の一日を無駄にしている。しかしその無駄に過ごした一日は、実は千年にも匹敵する内容豊かな時なのだと著者ペテロは語りかけている。
◆「千年は一日」
キリストの再臨がいつ来るかは、時間の統治者、歴史の主なる神の御手にあること。人間の物差しや計算で簡単に測定できるような事柄ではない。新約聖書の最初の書、マタイの福音書の1章1節には、
「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と明記。確かに、私たちと主イエスの受肉・ご生涯との間には、二千年の時間的隔たり。しかし同時に、主イエスとダビデとの間の隔たりも、約千年。さらに、ダビデとアブラハムの間も約千年。アブラハムへの約束から二千年、ダビデに対する約束からでも、千年経過した後に、主イエスにあって、彼らの対する約束は成就。
私たちの時計は、普通短針・秒針と長針。あえて言えば、世紀針やミレニアム針で、物事を見る必要がある。悠々(ゆうゆう)とした心持ちと必ずなるとの確信、希望と忍耐(ローマ8章25節、忍望)。「遅くなっても、遅れることはない」(ハバクク2章3節、新共同訳)のだから。神のご計画、時間は人間の物差しで簡単に測り切れない。
詩篇119篇105節が明示するように。
(1)道の光り・戦略。
創造から再創造へ。万物を視野に、そこに見る一貫性と進展性。
(2)足のともしび・戦術。
小さきこと、あたりまえのことがただならない恵み。一日を大切に、一歩を喜んで。主イエスにある先達にならって。
「わたしは進歩しつつ書き
書きつつ進歩する人のひとりであることを告白する」
内村鑑三の、「一日一生」
A。シュラッター、「始めは小さく、計画は大きく」