聖霊論の学び OBS2001年秋期神学セミナー    2001年10月22日(月)、23日(火) 第二回 Ⅰヨハネに見る聖霊

聖霊論の学び

OBS2001年秋期神学セミナー    2001年10月22日(月)、23日(火)
第二回 Ⅰヨハネに見る聖霊

[1」序

(1)「一度にすべてでなく」。主なる神の用いたもう原則。

 創世記1章1節に見る創造の御業。さらに万物の創造から再創造・新天新地(一貫性、進展性)まで。私たちの歩みは、この全体像を何時も意識し、万物の完成を待ち望む中での営み。

 聖霊ご自身の導きにより(霊感)により、聖書記者が誤りなく聖書を書く場合も、参照ヘブル1章1、2節。

 聖書の生い立ち、成立において、聖霊ご自身に導かれた聖書記者たち。

 エレミヤの場合を見たい。

 エレミヤの生涯、25章1-3節

         36章23-26節、28節、「再び」

         39章2節、頂点

   ↓
 私たち聖書解釈者も、エレミヤの生涯に見る、「絶えず、しきり」の原則。聖霊ご自身の導きに従い 聖書を反復、繰り返し、継続して読み続ける(私たちの場合は誤り得る)。

(2)私の場合、二つの場を中心に。

 首里福音教会において、主日礼拝と聖研・祈祷会を中心に、聖霊ご自身の導きを求めつつ、聖書を読み続ける。

 沖縄聖書神学校の教室で、組織神学の学びをなしつつ、教えられる。

 そこでの歩みを通して、聖霊論にかかわることごとも、教えられ続けている。それらは、確かに『聖霊論の展開』に基づくが、同時にそれなりの成長・展開があるのではないか。一例として、主日礼拝のテキスト、ヨハネの手紙。

[2]キリスト(論)と聖霊ご自身(論)との密接、不可分な関係。

ヨハネ7-9節

(1)「よく気をつけて」、8節。

①「人を惑わす者」(7節)の中心的な主張。

 ヨハネの手紙第一において繰り返し言及している「あなたがたを惑わそうとする人々」(Ⅰヨハネ2章26節)と同じ主張を、ヨハネはここでも取り上げている。彼らの中心的な問題点は、7節に見るように、「イエス・キリストが人として来られたことを告白しない」事実。惑わす者、反キリストの存在を直視し、ヨハネは、主イエス受肉の恵みの事実を軽視、さらに否定する傾向と、鋭く戦っているのです。信仰の戦いに直面するのは、何も沖縄に限ることではない。

 主イエス受肉を否定する、論敵の主張に対決して、ヨハネはキリストの人性を力強く強調。

 キリストの受肉・人性について明確な教え、大祭司キリストを提示するヘブルへの手紙においても、2章14-18節。

 主イエスは、真の人となられた真の神。この恵みの事実全体を受け入れないで、「人を惑わす者」(7節)は、主イエスの真の人としての側面を否定する。肉体ばかりでなく、彼らは物質を軽んじ、無視する。その根底において、天地の造り主、統治者なる神を彼らは否定している。ここでも、創世記1章1節が、いかに大切な基盤かを私たちは教えられる。創世記1章1節を信じるか、信じないか、これこそが鍵(かぎ)。

②「よく気をつけて」(8節)

 自分自身に目を向ける意味。主なる神の恵みと愛に応答して、実を結んでいるかどうかを吟味(ぎんみ)すること。パウロも、同じ意味の勧めをテモテに与えている。 「自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。あくまでもそれを続けない。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。」(Ⅰテモテ4章6節)。

(2)「キリストの教えうちにとどま」(8節)る。

①「キリストの教え」

 この意味については、キリストがご自身が教えた教えとキリストについて(弟子たち)の教えと二ついずれの意味にも受け取ることができる。主イエスが教えられた教えに基づき、弟子たちが主イエスについて教えたことを考えれば、二つは実際上は同じ。

◆ 誰も否定できない、聖書に明記している、驚くべき宣言。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14章6節)。

この宣言をめぐり以下の経過を推定できる。

 主イエスのご自身についての意識→主イエスがご自身について教える→最初の弟子たちが主イエスの教えを信じ伝える→聖書にこの一連の経過を含め、驚くべき宣言→私たちは、聖霊ご自身の助けと導きによりこの事実を受け入れ、生き、伝える。

 もしこの明瞭に推測できる事実を否定するならば、聖書に書いてないことを私たちは信じているのか。最初の弟子たちが信じ、教えていなかったこを福音書記者が記録しているか、主イエスが教えていなかったことを最初の弟子たちは考え出し教えたか、主イエスは自分では意識していなかったことを弟子たちに教えたかのいずれか。しかしそのいずれの場合も、ありそうもないことは明白。誰も否定できない聖書の驚くべき宣言を信じるのは、私たちにとり当然。

参照Ⅰヨハネ4章1-3節に見る、主イエス受肉の重要性、霊を見分け、判断する基準。

1節 警告

2節 保証、命令。「人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊をしりなさい。」

3節 断定

[3]聖霊ご自身の働きについて

 Ⅰヨハネ3章24節、神の命令と聖霊ご自身の働きは不可分。

(1)「御霊によって」。

①「神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます」 「神の命令を守る者は」

 「神の命令」、私たちの自己中心・自己満足などではなく、神の御旨が私たちを通して現実となって行くことこそ、第一の求め(マタイ6章33節)。その基本として、私たちは御子イエス・キリストの御名を信じ、互いに愛し合う生活を重ねて行く。神の命令を守る生活・生涯は、父なる神に従順に従う徹底的に人格的な関係。それは、聖霊ご自身の励ましに支えられ、主なる神を「アバ、父よ」と呼ぶ私たちの日常的な、また生涯を貫く祈りを中心にする。

 「神のうちにおり、神もまたその人のうちにおり」

 「うちにおる」また「とどまる」と訳されている単語は、Ⅰヨハネに25回も、またヨハネ福音書では41回も用いられている、ヨハネ特愛のことばの一つ。「神のうちにあり」が第一で、中心。しかしさらに「神もまたその人におり」と、相互関係を示す。

②「神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです」

 神はすでに聖霊を与えてくださっている。

 まず第一に、主イエスを信じる者に、父なる神は、すでに聖霊を与えていてくださる事実を確認する必要。参照Ⅰコリント12章3節をしっかり受け留めたい。

 私たちの課題は、「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」(ガラテヤ5章24節)との呼びかけに答える生活・生涯。聖霊ご自身を悲しませたり(エペソ4章30節)、私たちのうちから、聖霊ご自身を消す(Ⅰテサロニケ4章19節)ようなことがないように。

 「与えてくださっ」いる。

 全くの恵みに基づく賜物として、主なる神は与えてくださっている。私たちの側に何か功績があり、それに対する代償なのではない。

 賜物としての聖霊ご自身は、私たちのうちにあって、正しい信仰告白、正しい認識、正しい生活実践へと導いてくださる。それは自己満足からの解放であり、同時に積極的な生き方。

 もし信仰と理性・学問が矛盾が対立するならば、そのような信仰がおかしくないか、またそのような学問がおかしくないか吟味する必要がある。 

(2)聖霊ご自身の働きと私たちの記憶・記録、ヨハネ14章26節

◆恵みに応答し、委ねられた使命を果たす生活・生涯において約束されている、聖霊ご自身の働きと私たちの記憶・記録の関係について。ヨハネ14章26節が私たちに的確な指針を与えれくている。

 参照ヨハネ16章12、13節、マタイ10章16-20節。

 聖霊ご自身と私たちの知る・記憶・理解・認識の関係。 

   ↓最初に聞く、読むなど、put in    ↑思い出す、想起、put out   ←・・・・・・・保 持・・・・・→

           保 存

最も必要なとき、最も適切なとき、聖霊ご自身の助け・導きにより、必要な事柄を私たちは思い出す経験をしている。

 しかし聖霊ご自身が私たちを導いてくださるのは、思い出すときだけではない。最初に聞いたり、読んだりするときにも、聖霊ご自身は私たちを助けていてくださる。さらに最初のときから思い出すまでの全期間、私たちの意識、潜在意識に聖霊ご自身は働きかけくださっている。実に驚くべき恵み。

[4]結び

 各自の持ち場、立場における聖霊ご自身と聖書

 私たちは、主日礼拝に一緒に集まり、同じ讃美歌を賛美し、同じ聖書のことばを味わい、主なる神を共に礼拝する恵みにあずかっている。 しかし同時に、各自の持ち場、立場に散り、そこで聖書と聖霊ご自身の導きにより、各自の場に注がれている神の恵みを見抜き、主なる神への賛美をささげる。一週間のあるゆる課題を担って主日礼拝に集う群れの各自。主日礼拝は、決して各自の生活から、切り離し得ない。主日礼拝の場から、各自の持ち場、立場に派遣される。礼拝と生活の二本立てではなく、礼拝しつつの生活、生活の中の礼拝。

 この礼拝の生活の歩みは、ただただ聖霊ご自身の導きによる。ヨハネは、ガイオの実例に見るように、ひとりびとりの日常的な礼拝の生活を重視。