『人間パウロ、手を引かれて歩む』                      使徒の働き9章1−19節前半

『人間パウロ、手を引かれて歩む』
                     使徒の働き9章1−19節前半
(1)パウロの手紙を読んで行きますと、「誇り」をめぐり、一見矛盾する二つの力向を示す表現に直面します。
一方においては、「これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」(Iコリント1章29節)のように、神の御前に人間が誇ることを強く否定している表現。
他方、パウロ自身が自らの誇りを明言している場合も数少なくない。
たとえば、「私のようになってください」(ガラテヤ4章12節)のように、一見ひどく高慢と思われる表現に直面します。それで。パウロが誇りを否定していると思われる表現とどのように調和するのか戸惑いを感じます。
ですから何を誇らないようにパウロは求め、逆に何を誇っているのか注意する必要があります。特に、主イエスから異邦人への福音宣教を委ねられた異邦人への使徒として、パウロの誇りをめぐる意識と主張に耳と心を十分傾ける必要があります。

(2)誇り—何をいかに—
 ①否定的表現
 まず、パウロが誇ることを否定している実例。
たとえぱ、コリント教会の誕生の事情を回顧して、この世の取るに足りない者たちや見下げられた者たちが選ばれている事実に注目して、「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(Iコリ1章29節、とパウロは理解し、主張しています。人間的基準に従い、この世の知恵、権力や身分などを頼 りに、神の御前に出ようとする心の動きを、パウロはきっぱりと拒絶しています。何を誇ってならないか明示しています。
 次に、本来、良いものであり誇るべきものであっても、いかに誇るべきか、誇り方に問題がある場合。
たとえば、ローマ人への手紙2章17節以下見る指摘。そこではユダヤ人が律法を誇っている場合を取り上げています。
ユダヤ人が「律法に頼り、神を誇りとし」(ロ−マ2章17節)て人々を教えながら、自分自身を教えようとしない場合。ここに見る一貫性のなさを、「律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神侮るのですか。」(ロ−マ2章23節)と鋭く非難します。
 確かに、パウロは、何を、どのように誇るかをめぐり、戦いをなし続けていた、この側面を無視出来ません。
たとえば、ガラテヤ教会において、教会のキリスト者の中に、キリストが形造られることを願い苦闘するのではなく、彼らに割礼を受けさせ、その表面的事柄をもって自らの影響力を誇ろうとする人々(ガラテヤ6章13節)と、パウロは激しく戦います。
また、エペソの教会に向かい、救いは恵みのゆえであり、信仰によることを明言し、神からの賜物であることを確認して、「行いによるのではありません。だれも誇ることがないためです。」(エペソ2章9節)と、誇ってならぬものが何であるかを提示します。

②肯定的表現
 ところが、何を誇っていけないか、どのように誇ってならないかパウロは否定的表現をなしているだけではありません。
何を、いかに誇るべきか。積極的に肯定的表現をパウロは繰り返し宣べています。そうなのです。パウロが何を一貫して誇っているか。それは明らかです。主イエスにあって、今恵みの立場に導き入れられている事実に立ち、驚くべき救いに導きいれてくださった神ご自身を誇り、喜んでいるのです(ロ−マ5章2、3節)。
「誇る者は主にあって誇れ。」(Ⅰコリント1章31節)。
「誇る者は主にあって誇りなさい。」(IIコリント10章17節)、Iコリント一29)。
 
イエス・キリストにある救いを誇るという時、救いの対象であるキリスト者・教会を誇る事実を含みます。
たとえば、コリント教会の人々に対して、パウロは信頼と誇りを持ち、同労者に 
「私のはあなたがたに対する信頼は大きいのであって、私はあなたがを大いに誇りとしています。」(Ⅱコリント7章4節)と、深い思いを伝えて、リント教会に対する自らの誇りに、コリント教会の人々が応答してくれるよう期待しています。(Ⅱコリント7章14節。参照8章24節。)
  しかし何と言っても注目すベきは、使徒として立てられている自らの立場についてパウロが誇っている事実です。(Ⅱコリント10章8節)。この場合でも、パウロは自分の働きの領域を弁え(Ⅱ10章15−16節)、何か自分の優れた資質、行為などを取り上げて誇っているわけではないのです。神ご自身がパウロの中になしたもう恵みの事実そのものをパウロ誇っていることは明確です。
具体的には、「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」(IIコリン11章30節)と、自分の弱さを誇る逆説的な宣言をなしています。参照Ⅱコリント12章9節。このパウロの意識と宣教の鍵は、使徒パウロの基盤である、ダマスコ途上の経験において鮮明に示されています。

(3)ダマスコ途上の経験
 使徒パウロの基点・ダマスコ途上の経験について、パウロ自身の証言とルカの記述の両方を味わいたいのです。

①ガラテヤ1章15節
 自らの使徒としての立場が人間から出たことでも、人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと父なる神によるじ実をパウロは強調し、パウロは手紙を書き出しています。(1章1節)。
さらに使徒としての自らの歩みにとり、ダマスコ途上の経験がいかに決定的意味を持つか、「けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、御異邦人の間御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することよしとされたとき」(ガラテヤ1章15、16)とパウロは明言しています。
この表現は、前後関係の中で際立ちます。この直前では、ダマスコ途上での経殿以前の生活を、「私は、激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。」(ガラテヤ1章13節)とパウロは迫害者としての自分の過去を明らかにし、「また、私は、自分と同族同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。」(ガラテヤ1章14節)と、熱心なユダヤ教徒としての自らの歩みを描いています。    また直後の16節後半以下では、ダマスコ途上での経験後の行動について、「私はすぐに、人には相談せず」(ガラテヤ1章14節)と語っています。このように、ガラテヤ1章13節以下は、パウロが自分自身の経験を「私は」と自らを主語として語っている記述です。
ところが、15節と16節前半では、「けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、御異邦人の間御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することよしとされたとき」(ガラテヤ1章15、16節)と、神ご自身の先行的な呼びかけを鮮やかに描いています。つまり、パウロの地上での水平的な歩みに、垂直な上よりの呼びかけがなされたのです。パウロ使徒として誇るのは、水平的な自らの歩みに見る弱さであり、垂直的な恵みの呼びかけの確かさです。

使徒9章Ⅰ−22節
 パウロのダマスコ途上の経験がいかに重要な出来事であるとルカが理解し主張していたかは、使徒9章、22章、26章でダマスコ途上の出来事を繰り返し描いている事実からも明らかです。
使徒9章Ⅰ−22節。
 使徒9章3、4節に見るように、パウロエルサレム教会を迫害するだけでは満足せず、ダマスコの主にある人々をも迫害する計画を抱きダマスコヘ進む途上、権威に満ちた主イエスの呼びかけに圧倒されるのです。
この記事の中でm4節から5節への移行に注目したいのです。パウロの心の中に生じた変化は、5節の「主よ、あなたはどなたですか」との応答の言葉を通し明らかにされています。ここには、自らの限界を認め、「主よ。あなたが中心であり、第一であって私が決定権を持つのではありません」と告白し、この御方に従い進むため、さらにはっきりご自身を明らかにしてくださいと求めるパウロの姿をみます。主イエスは、このパウロの求めに答え、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(9章5節)と宣言なさるのです。この復活のイエス宣言は、パウロの心を貫き、主イエスに全面的に従う者へと整えるのです。
 「立ち上がって、町にはいりなさい。」(使徒9章6節)と、の具体的な指示にパウロは答え、先ず立ち上がり、ダマスコヘの第一歩を踏み出します。パウロは今出来る実際的なことを通し、主イエスに従う。「そうすれば、あなたのしなければならないが告げられるはずです」(9章6節と、主イエスは約束なさいます。
パウロは、一度にすべてを悟るのではない。主イエスは、すべてのことを一度に教えるのではないのです。実に忍耐深く、時間を費やし、パウロの歩調に合わせ、一歩一歩導かれるのです。今、ここで主イエスが明らかにしてくださることに全身で応答する。その時、主は次のステップを示し、次の段階へと導いてくださるのです。
 パウロは、主イエスの命令に具体的に従い、地面から立ち上がります。そして、「立ち上がって、町にはいりなさい。」(9章6節)との命令に従おうとするのです。しかし、「目を開いていても何も見えなった」(9章8節)のです。自分一人では先に進み得ない事態に直面しながら、しかもなおも主イエスの指示に従うためには、当時目の不自由な人々が普通していたように(使徒13章11節参照)、他の人に手を引いてもらい進むしかありません。「人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。」(9章8節)のです。
エルサレムからダマスコヘ向かうパウロ。彼は、一群の人々の先頭を威風堂々と進んでいたに違いありません。それが今や一転して、手を引かれ一歩一歩おぼつかない足取りで進むのです。自分の手を引いてくれる人々はと言えば、パウロのようにはっきり主イエスの姿を見、主イエスの言葉を理解した人々ではなかったようです。主イエスに選ばれ、異邦人への宣教者として特別な使命を与えられたパウロは使命を果たすために、こうした人々に支えられ、助けを受けながら一歩を踏み出したのです。
 手を引かれて進むパウロ
彼は、手を引かれて連れて行かれたダマスコで、大胆に福音を宣べ伝えます。(使徒9章19節以下)。しかし、その結末は、夜中にかごに乗せられ、町の城壁伝いにつり降されるというものです。この経験を使徒パウロは生涯忘れなかったようです。後年、福音のため労苦する自らの生活、生涯について述べるに際し、このダマスコでの経験について特別に言及しています。
 IIコリント11章23−31節の内容を考慮した上で、32節と33節を読むと、一層印象深く響いてきます。「ダマスコではアレタ王の代官が、私を捕えようとしてダマスコの町を監視しました。そのとき私は、城壁の窓からかごでつり降ろされ、彼の手をのがれ逃れました。」
 手を引かれるパウロ
あの威風堂々と進むパウロではなく、人に手を引かれるパウロを通し、福音はエルサレムから遂にローマヘと伝えられたのです。人々に手を引かれながら、実は主イエスに手を引かれていたと言えないでしょうか。ここに、自らの弱さを誇る、使徒パウロの姿を見ます。これこそ、使徒としてのパウロの第一歩であり、最後に至るまで一貫した姿です。人々に手を引かれながら一歩一歩ダマスコヘ向かうパウロに、忍耐深い主イエスは、ご自身の福音を委ねておられるのです。

(4)集中と展開・視点と視野
 誇るパウロ。それは一方的な神の恵みによって使徒としての立場を与えられ、手を引かれつつ、その使命を忠実に果し続けている姿に他なりません。このように徹底的に神の恵みに自ら応答し従い生きる者として、パウロは、「あなたがたもわたしのようになってください。」(ガラテヤ四12)と、ガラテヤ教会の人々に大胆に勧めるのです。
 パウロは自ら経験していることを人々に期待し、勧めているのです。それ以上でも、それ以下でもありません。一見高慢とも見えるパウロの勧めは、誇ってはならぬものを誇ることは全く否定し、ただ神の恵みにのみ頼り、手を引かれつつ一歩一歩を踏み進める生涯の中から語られた言葉であると確認させられます。この勧めに励まされ、教えられる限り、今、ここで、主イエスの恵みに応答し、その命令に従い、今、ここで従いつつさらに教えられたいものです。