『パウロへの攻撃、パウロの反論』 Ⅱコリント11章5−15節
『パウロへの攻撃、パウロの反論』
Ⅱコリント11章5−15節
〔1〕 序
今朝の箇所では、パウロに対する論敵たちの攻撃を見ます。
パウロが激しい攻撃を浴びている事実はショックです。
しかし、パウロがその攻撃に対して黙しているのではなく、はっきりと反論している事実も驚きではないでしょうか。
〔2〕 パウロへの攻撃
(1)「話が巧でない〕(6節)。
この点については、すでに10章10節で見てきました。
「彼らは言います。『パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ったばあいの彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。』」。
この批判は、雄弁術を重んじる気風の強いコリントの町、またそこに生まれ成長したコリント教会にとっては、小さくない問題でした。
この点は、Ⅰコリント1章17節に見る「ことばの知恵」という表現からも、明らかです。
「キリストが私をお遣わしになったのは、・・・福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。」
(2)「自分を低くして報酬を受けずに神の福音を」コリントの人々に伝えること。
「自分を低くする」とは、ピリピ2章8節で明示しているように、主イエスご自身が身をもって現した生き様です。
「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」(ピリピ2章8節)。
また主イエスが弟子たちに直接教えられた「自分を低くする」道(マタイ23章12節)です。
パウロは、主イエスがご自身で実行され、また弟子たちに教えられたことを実行したのです。またそれゆえに非難、攻撃を浴びたのです。
「自分を低くする」とは、コリント教会においては、「報酬」、「給料」を受けない、経済的「負担」をかけないことです。
〔3〕 パウロの反論
(1)「知識についてはそうではありません」(6節)
Ⅰコリント12章節を注意。
「ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ」。
課題は、どのような知識であるかです。いわば本物の知識の大切さを明示して、パウロは鋭く反論しているのです。
(2)「報酬を受けずに」(7節)。
この表現は、報酬・give and takeではなく、賜物・プレゼントとしての意味。
①主イエス・キリストの十字架の意味。福音、喜ばしいニュースの意味。
ローマ3章24節
「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
②福音宣教の方法。
マタイ10章8節
「病人を直し、死人を生き返らせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しなさい。あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」
Ⅱテサロニケ3章8節
「人のパンをただで食べることをしませんでした。かえって、あなたがたのだれにも負担をかけましとして、昼も夜も労苦しながら働き続けました。」
③驚くべき呼びかけ
黙示録21章6節
「また言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇いた者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませた。』」
(3)「誇り」(10節)
(4)論敵
「変装」13,14,15節で繰り返し強調。
鋭い対比
「彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります」
ヘブル13章7,8節
「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。
イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」
マタイ7章15−29節。
[4]結び
(1)攻撃を恐れない。驚かない。
(2)弁証
Ⅰペテロ1章15−17節
「あなたがたを召してくださった聖なる方になって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。
それは、『私は聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです。
また、人をそれぞれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過しなさい。」
キリストに従う日々の生活・生涯が、何よりも地から強い弁証の基盤。そのような生活・生涯から生まれる明確なことばにより強力な弁証がなされるのです。