1988年5月27日,那覇ホーリネス教会の会堂にて       「担われて生きる」                      イザヤ書46章1節〜4節

1988年5月27日,那覇ホーリネス教会の会堂にて
      「担われて生きる」

                     イザヤ書46章1節〜4節

[一]序

 この聖歌292番も,笹尾鐵三郎先生の作詞によるものです。今晩ここに集うことの出来た私たち一人一人が心から,この聖歌を歌いつつ,それぞれの場に散らされるなら,私の知る限り,今晩の集会の,目的は果たされると理解します。私たちの生活の場で,この聖歌292番を口ずさむことが出来るなら,どんなに幸いでしょうか。私たちの生涯を貫いて,この292番の一節一節を心を込めて歌いながら,一歩一歩前進することが許されるなら,それは何と力強い人生でしょうか。今晩の集まりが,ある方々にとってそのような生活・生涯の記念すべき第一歩となることを祈ります。

 「きょうまで守られ きたりしわが身

    つゆだにうれえじ ゆくすえなどは

      いかなるおりにも あいなるかみは

        すべてのことをば よきにし給わん

 今晩ここに集っている一人一人,実に様々な人生の経験を重ねながら歩みをなして来ています。是非,それぞれの来し方をお聞きしたい程です。それぞれ異なる過去を持つ私たちが,1988年5月27日,この那覇ホーリネス教会の会堂に共に集まっていること自体,考えてみれば,不思議なことです。そうです。私たちは,それぞれに自分の今日までの歩み,人生の航路をふと振り返るときがあります。そして思うのです,何よりも確かな人生の最後に臨んだ際,どのように自分の過去を振り返るのだろうかと。今晩,そしてやがての時,どのように自らの過去について受け止めることが出来るのでしょうか。このように思いめぐらして来ますと,聖歌292番の一節は,ただならない内容を歌いあげていることに気付かされます。

[二]きょうまで守られ 
「きょうまで守られ きたりしわが身」。何と驚くべき,自分の過去に対する見方ではないでしょうか。作詞者笹尾鐵三郎先生が,このように歌いえた根拠は,実は聖書の宣言に堅く立っているからなのです。今,聖書の一箇所,先程読んで頂きました,イザヤ書46章1節から4節を,もう一度お読みします。1,2節と3,4節の鋭い対比,違いに注意しながら,まず1,2節です。  
「ベルは伏し,ネボはかがみ,

  彼らの像は獣と家畜との上にある。

  あなたがたが持ち歩いたものは荷となり,

  疲れた獣の重荷となった。

  彼らはかがみ,彼らは共に伏し,

  重荷となった者を救うことができず

  かえって,自分は捕らわれて行く。」

ここに描かれているのは,2千数百年も前の,バビロンの国の代表的な偶像礼拝についてです。さしも巨大な世界帝国バビロンが敵ペルシャに滅ぼされてしまう時には,国家と癒着し,国家を利用し,利用されて来た宗教は全く無力なのだと言うのです。人間の手で作った偶像は,それがいかに立派に見え,大きな者であっても,人々が危機に直面し,最も助けを必要とする時には,敵から逃れて逃げて行く人々の助けとならないばかりか,その像が巨大であればある程,それを運んで逃げている牛車にとって重荷になってしまうのです。ここに描かれている図は,多くの場合の宗教の姿を示していると言えないでしょうか。人々にわっしょいわっしょいと担われている偶像。人々の熱心,団結や組織そうした一切を駆り立てて,偶像を担せようとする力が働いてます。ですから,イザヤ書46章1,2節に見るのは,とても覚めた宗教批判です。 

 ところが,イザヤ書46章3,4節には,全く違う姿を見ます。1,2節との鋭い対比に注意しながら,3節を味わいたいと思います。

 「ヤコブの家よ,

  イスラエルの家の残ったすべての者よ,

  生まれ出た時から,わたしに負われ,

  胎を出た時から,わたしに持ち運ばれた者よ,わたしに聞け」とあります。 そうです。イスラエルの民は,あの巨大な世界帝国バビロンによってその国を滅ぼされただけなく,その中心的な人々は遠くバビロンへ捕囚として捕らえられてしまったのです。しかしそのような現実の中で,イスラエルの民は,真の神がいかなる御方であるか深く教えられたのです。そうです。真の神を知るとは,自分の姿を悟ることに他なりません。彼らは,人間の本当の姿,つまり,担われて生きる者としての自己のありのままの姿をはっきり示されているのです。人間・わたし。その本当の姿は,さまざまな外面の飾りを取り去ったところ,生まれ出たときの乳幼児の内にこそ,ありありと示されていると言うのです。担われるのでなければ,一瞬たりとも生きることのできない者。その人間・わたしの実態は,乳幼児の時に最も鮮やかに浮かび上がっているわけです。しかもそれだけでない。聖書は,乳幼児からさらに母の胎内にあるときから,真の神の恵み深い行き届いた御手に守られている事実を証言しています。

 「あなたはわが内臓をつくり,

  わが母の胎内でわたしを組み立てられました。

  わたしはあなたをほめたたえます。

  あなたは恐るべく,くすしき方だからです。

  あなたのみわざはくすしく,

  あなたは最もよくわたしをしっておられます。」(詩篇139:13,14)

また私たちは,それぞれ最老年に達した時,多くの方々に世話を受けます。胎児,最老年の私の姿は,担われて生きる人間・私のありのままを率直に示しているのです。そればかりでなく,胎児から最老年の間,少年・少女時代,青年時代,壮年時代も同じく多くの人々に担われて生きているのです。しかし,多くの場合,その事実を見失い,自らの力で生きているかのように錯覚しているのです。胎児に学び,最老年の方々から教えられねばなりません。
この担われて生きる人間・私の姿を,聖書の最初のページ創世記1章の万物の創造の記事は見事に描いています。

 「神は,『光あれ』と言われた。すると光があった。」(創世記1章3節)以下,水,植物,動物,そして人間の創造について簡潔に描きます。光と水なくして,存在できない植物,さらに光と水そして植物に依存して生きる動物。何よりも光,水,植物,動物,すべてに依存して生きる人間・私。すべての存在の背後にある,生ける神ご自身に担われて生きる私たち一人一人。まさに, 「きょうまで守られ きたりしわが身」なのです。

[三]つゆだにうれえじ
イザヤ書46章4節を是非味わいたいのです。

 「わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず,

  白髪となるまで,あなたがたを持ち運ぶ。

  わたしは造ったゆえ,必ず負い,

  持ち運び,かつ救う。」

そうです。確かな,確かな御手の中に,私たちの老後はあるのです。 

 「つゆだにうれえじ ゆくすえなどは」なのです。過去を神の恵みの御手にあると知らされる者は,未来について同じく悟ることが出来るのです。

 「いかなるおりにも あいなるかみは

    すべてのことをば よきにし給わん」と,力強く歌うのです。

「四]結び
意識するとしないとにかかわらず,胎児の時から,幼児,少年・少女時代,青年時代,壮年時代そして老年時代を通じて,人間・私は,担われて生きるのです。万物に依存し,すべての人々に世話になり,万物の創造者,生ける神に担われて生かされているのです。それなのに,この事実を認めず,錯覚し,自分の力で生きていると錯覚し,高慢になり,自慢し不遜になっています。これも聖書で,的外れな生き方,罪と呼びます。逆に,担い給う生ける神の恵みを認めず,誰もかまってくれない,心配してくれないと不安になったり,不平・不満ばかり,気が滅入って,虚無に陥るのです。これまた罪です。

 イザヤ書46章,そして聖書は,この高慢と虚無からの解き放ち,罪からの救いを宣言しているのです。聖歌292番の1節1節,この担われて生きる恵みを感謝し,喜び,私らしい私,人間らしい人間の道を歌っているのです。今晩,私たち一人一人我にかえって,つつしみと勇気の歌,この聖歌292番をしみじみとそして心から歌って,新しい一歩を踏み出そうではありませんか。