市川治平元大佐(陸士三七・陸大四九)、わが伯父と私  その2① 幼年学校・士官学校・陸大と神学校教育・神学教育

市川治平元大佐(陸士三七・陸大四九)、わが伯父と私 
その2① 幼年学校・士官学校・陸大と神学校教育・神学教育

 市川伯父は、母典子が敬愛していたこともあり、私の生涯に影響を与えたことを認めます。特に伯父が一貫して受けた近代における軍事教育と私が受け、その働きに参与した神学校教育・神学教育との比較対比が、無意識的にも意識的にも私の思索の対象になっていました。

 伯父が極幼年期から職業軍人の道を選び、実践したのは、時代背景があるのは勿論でしょう。しかし山梨県都留地域に、武田の敗軍の末裔と育ち、武田の兵法を意識し誇りとしていたことと強くかかわると私は理解します。
 私は、伯父と二つの時期身近に生活しました。
戦後私が小学1年生から3年生、福島いわき市の山奥・成沢炭鉱時代と開成高校3年のある期間、駒込の伯父の家に世話になり高校に徒歩で通った時です。
 成沢炭鉱では、伯父は、ゆっくりした時間の流れの中で、好きなどを楽しむ余裕の日々を過ごしていました。私は、伯父の所によく遊びに行きました。そうした中で聞いた、あれこれの言葉が、70年近く経過した今も記憶に残っています。
 例えば、「見える魚は釣れない」。目に見えるところだけに頼りがちな私たち。しかし、しっかり仕掛けをし餌をつけたら、見えるところでなく左右されるのでなく待つ。これは、伯父が受けた軍事教育から直接学んだかどうか不明ですが、私にとっては、考え深く作戦を練る伯父のイメージと結びつくものです。

 幼年学校か士官学校でのことか判別がつかないのですが、鮮明に記憶している伯父が受けた訓練の一つの話を覚えています。