アラスカと私 その6 ◆首里福音教会における主日礼拝 「あなたがたのうちにイエス・キリストが」  Ⅰコリント13章1ー10節

アラスカと私 その6
首里福音教会における主日礼拝
「あなたがたのうちにイエス・キリストが」
 Ⅰコリント13章1ー10節
☆あなたがたのうちにイエス・キリストが」
Ⅰコリント13章1ー10節

[1]序.

(1)今朝は,7月にアラスカヘ派遣されようとしている高山技術宣教師をお招きして,お証を伺う機会が与えられ感謝でした.アラスカと沖縄と言えば,私たちはすぐにクジラの回遊を思い起こします.主なる神の創造の世界では,アラスカと沖縄の結び付きは,しごく当然なことなのです.
 実は,私ども家族が沖縄の首里福音教会の一員として生活している現在の生活に,アラスカが関係しているのです.二十年以上前,奥多摩宣教とのかかわりで,私がアラスカの持つ重要性を強調し,アラスカ訪問を重ね,また幾人かの人々のアラスカ訪問が実現していた頃,甲府の溝口先生は,遠いいアラスカより,まず近い沖縄との関係を日本新約教団は密に持つべきではないかと主張なさりました.それが一つの引き金として,沖縄への夏季宣教や,沖縄聖会の計画・実行がなされました.青梅キリスト教会の兄姉が私たちを沖縄に祈り送り出してくださる中で,この一連のことごとが用いられたことは,確かです.

(2)アラスカ中央ミッションの創設者,ビンセント・ジョイ宣教師については,お手元の拙稿をごらんください.十年前クリスチャン新聞に掲載していただいたものです.高校生の主イエスに対する信仰がどのような意味を持つか,改めて教えられないでしょうか.
 3月25,26日の97年春の伊江島中高生キャンプを目前にしております.高山宣教師は伊江島キャンプのTシャツを八着も買ってくださいました.きっとアラスカでも着てくださり,アラスカの人々に伊江島キャンプの話を伝え,祈ってくださるようにお願いしてくださるでしょう.一昨日は,一緒に伊江島を訪問,タッチュウにも登って来ました.アラスカと伊江島の関係から,今後どのようなことが生まれてくるか,固唾を飲み見詰めるばかりです.心熱くさせられながら,今朝の箇所, コリントの最後の章・13章の1ー10節を1ー6節と7ー10節に分け,味わいます.来週イースターには,最後の章の最後の部分・11ー13節をと祈ります.

[2]キリストご自身とキリスト者・教会,1ー6節.
 パウロの願いは,コリント教会の人々が悔い改め,本来の道に立ち返ることです.三度目にコリントに行く際,悔い改めない人々に厳しい処置をなすような事態にならないよう心より願うのです(1,2節).そのために,書き続けてきた手紙の最後を祈りつつ結ぶのです.

(1)キリストご自身に対する理解.
 キリスト者・教会にとって,すべてはキリストご自身です.コリント教会の人々は,主イエスに対して,正しい,深い,豊かな理解を持つ必要があります.
 「キリストはあなたがたに対しては弱くはなく,あなたがたの間に あっては強い方」(3節).
  キリストご自身は,「確かに,弱さのゆえに十字架につけられまし  たが,神の力のゆえに生きておられます」(4節).
 私たちが,12月の主日礼拝で集中した,ピリピ2章の大切なことを再確認したいのです.

(2)「私たちも」(5節後半),キリスト者・教会に対する理解.
 私たちは,キリストご自身についての理解と共に,自分自身,つまりキリスト者・教会についても正しい,深い,豊かな理解を求められます.神を知ることなくして,人間を知ることができない.人間を知ることなくして,神を知ることができないと言われる消息に通ずるものです.  「私たちもキリストにあって弱い者ですが,あなたがたに対する神  の力のゆえに,キリストとともに生きているのです.」(4節)
  「あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられる」.
 今週の聖句参照.
 このように主イエスご自身と自分自身,つまりキリスト者・教会に対する理解を求められます.その現実の中で,コリント教会の人々は,「自分自身をためし,また吟味」(5節)する必要があります.さらに,パウロたち教え導く立場にある者たちに対して的確な判断を求められるのです(6節).コリントの人々は,福音を正しく,深く,豊かに説き明かす教導者についての判断で,大きな問題を抱えていたのです(11章3,4,13節参照)

[3]パウロの祈り,7ー10節.

(1)パウロの祈りの内容,7ー9節.
 「私たちは・・・神に祈っています」(7節)
 コリント教会の人々の行動・生活について,「どんな悪をも行わないように」,さらに積極的に「正しい行ないを」なすように.
 コリント教会が主なる神に従い,御心を行なう本来の目的の成就のためには,自分自身がどのように判断されてもよいと(7節)とパウロは強調しています.

(2)「離れていてこれらのことを書いているのは」,10節.
 パウロがこの コリントを書く目的.主イエスから委ねられた権威をもって,パウロはコリント教会が建ち上げられるようにと願い,現にこの手紙を書き進めています.この目的成就のため,7ー9節に見るような祈りが重ねられています.パウロが祈る内容と現に手紙を書く行為・働きは一致します.祈りつつ働き,働きつつ祈るのです.

[4]結び.
(1)主イエスご自身を知る.生きたキリスト論が大切.主イエスご自身との関係がすべてです.先日の伊江島中高生キャンプのスッタフ会で,一人の中学生の紹介,「あの子は,イエス様が大好きな子」と.
(2)主イエスご自身と私たち(キリスト者・教会,実は本来の人間,私たちらしい私たち,人間らしい人間)との関係.生きた教会論が大切な鍵.聖書はこの大切な関係について,さまざまな言い回しで伝えています.たとえば,
 主イエスは私たちと共に
 キリストのうちに私たちは
 私たちのうちにキリストが

 先週学んだ,キリストご自身が教会を建てられる約束に立ち,私たちが持つべき自覚を再確認したいのです.
(1)首里福音教会とは.
 聖なる公同の教会に呼び入れられた,「神の国とその義とをまず第一」(マタイ6章33節)にする歩みを求める群れなのです.自分の私的言い訳ではなく,主の主,王の王なるお方の言い分を第一にし,従うのです.主イエスの言い分の全体をこつこつ聖書を読み続けることにより知り,生活と生涯を通して従い,伝えるのです.
(2)首里福音教会の一員として生かされるとは.
 成長する者,生ける石として,各自が大切,一人一人が鍵です.
(3)聖霊とみことばにより改革され続ける群れ,各自として,
 悔い改めの生活・生涯
 マルチン・ルターの95個条の提題の第一.
 「私たちの主であり,師であるイエス・キリストが,『悔い改めよ・・・』(マタイ4章17節)と言われるとき,彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである」
 生ける石として生かされるとは,何重にも重ねて言い表される,主イエスと私たちの関係に生かされることです.
 主イエスは私たちと共に
 キリストのうちに私たちは
 私たちのうちにキリストが