旧約聖書と私 

旧約聖書と私 
 
 私の小さな歩みな中で、今でも確かな良き影響を与えている二つの経験を報告させて頂きます。
 一つは、一九七〇年四月から一九八六年三月まで、その一員として歩みをなすことを許された、青梅キリスト教会での経験です。
 毎週水曜日の聖書研究会・祈祷会において、モーセ五書の一章ずつを読み続けたのです。申命記の終わりに至ると創世記の始めに戻り、新しく読み始める方法を取りました。平凡に見える一地域教会の営みにも、十数年の間には、それなりの山あり谷ありと言い表したい事態に直面する中で、とにかく毎週モーセ五書を読み続けることは、大きな恵みでした。この経験を通して、群れの各自にとって旧約聖書が親しみやすいものになったのは確かです。少なくとも私にとっては、そうでした。
 それと同時に、旧約聖書を前にして、互いの旧約聖書についての知識の欠如を痛感し、旧約聖書を専門的に研究する方々の労を感謝しました。また小さな群れであっても、将来子供達の中から、地域教会にあって生き続ける人々の生活を意識し続けながら、旧約聖書を徹底的に学ぶ者が起こされるように、何回か皆で共に祈りました。
 
 もう一つのことは、一九七八年四月から一九八六年三月まで、日本女子大学の英文科の学生を主に対象として、『聖書』という講座を担当した経験です。週に1時間半と少しの時間を用い、一年の間に、創世記からヨハネの黙示録までを大きく見て、何が、いかに書かれているか聖書の構造を伝えることを目指す。何故著者は、この内容を、このように表現しているのか、著者の意図は一体何か。
 聖書の主題とその展開を求めて、学生の方々と聖書を読み進めて行く時、モーセ五書が聖書の土台であることを強く感じました。モーセ五書、さらには、創世記、特にその一章から三章までが、聖書全体の出発点、土台として大切と強調せざるを得ませんでした。
 創世記一、二、三章において、何がいかに書かれているのか。何がと言えば、神、宇宙、人間と、その視野の大きさに圧倒されます。いかにと言えば、その複合的視点が印象的です。三章が出発点ではなく、その前に一、二が位置している意味。本来の人間(創造)、現実の人間(罪)、希望の人間(救い)と複合的視点から人間の姿を描き、本来の人間、人間らしい人間への道を示している。このように見て、主イエス・キリストこそ、聖書の中心である意味。そうです、私自身が恩師渡邊公平先生から学んだ基盤を、渡邊先生から継承した授業で伝達出来たのです。

 この二つの軸を中心とした旧約聖書と私の結びつきは、その後沖縄での沖縄で聖書を読み、聖書で沖縄を読む沖縄での25年間の営み、さらには沖縄から関東へ戻り、クリスチャントゥデイでの「聖書をメガネに」と書き続ける働きに行かされていると自覚します。
 挫折の連続に見える歩みを、なおも一貫して導き給うお方の御名を崇めます、感謝。