『芦屋浜通信第146号』藤原信之 2017.5.1 《あるがままで帰って来ればさえいい》

『芦屋浜通信第146号』藤原信之 2017.5.1
《あるがままで帰って来ればさえいい》 
 
★1958年4月、日本クリスチャンカレッジ入学、寮の4人部屋の2年先輩の藤原信之兄から、以下に見る、『芦屋浜通信第146号』、感謝。

相馬黒光(そうまこっこう)は幼いころから日曜学校に通い14歳で受洗、熱心なキリスト信徒。フェリス女学院、明治女学校を卒業し、これまた熱心なキリスト信徒の相馬愛蔵と結婚。
 夫の生家・長野県東穂高に居住、農業に従事するが都会育ちの黒光に農業は酷で喘息を患い、東京に出たいとの願いに、長女を穂高に残せとの義父の条件に従い3歳の長女を残して東京に出る。
 新宿に中村屋を創業、良品安価、正直、正価販売をモットーに成功。しかし、子どもをつぎつぎと死なせる不幸に見舞われ、さらに、長女を穂高に置いてきた負い目と、自責との闘いに疲れ果てていく。 
 「中村屋発展の明るい面は私の外部、私の内部は山あり谷あり、急坂あり、泥沼あり、怒涛狂乱、身も魂も覆されてしまうかと思ったことも度々でした。
眼を深奥に注いで省みると多くの懺悔すべきものを蔵していました。」と述懐。
 
 この頃から浄土宗に近づき、救いを仏教の他力道に求め始めている。
なぜ、仏教の他力道なのか。キリストによる他力道の福音は知らなかったのか。
 相馬夫婦が暮らしていた頃の信州でのキリスト教は「東穂高禁酒会」が創立され、生活倫理の改革運動として偏狭な排他性で展開され、酒の伴う席には出席しない慶弔の意に欠け、知人の反目を買い、世間から疎外されていった。
中村屋で洋酒販売を取り入れたときも「悪魔の使者ともいうべき酒を売るとは何ごとか」と内村鑑三らに叱責されている。

 明治以来「禁酒禁煙」を、信仰と何ら関係ないのに金科玉条のごとく掲げてきた日本キリスト教に、譬え話「放蕩息子」(ルカ15:28以下)の兄の生き様を連想する。
この兄は自分の父親が解っていない。弟は親との縁を切ったつもりで家出したが、そんな子の態度にもかかわらず、親の方では変わりなく父親なのを。 
 放蕩に身を持ち崩して帰って来た弟の帰りを大喜びで、祝宴を催してまで迎える父親に、兄は「怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめる」と、
兄は父親に向かって「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊(こやぎ)一匹すらくれなかった‥。」  
 父親は「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。
 わたしのものは全部お前のものだ。」と。
この行間に父親の思いが見え隠れしている。
 お前は一生懸命で真面目だ。しかし、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。」だから大船に乗ったつもりでゆったり大らかにやればどうかね。そして「わたしのものは全部お前のもの」、子山羊一匹どころか遠慮せず友達と大いに楽しめばいいじゃないか、と。
 この兄は、友達との宴会の子山羊をねだりもせず、言いつけに背かず、真面目だが、小心で、片意地で生きているようで、父親との距離を感じさせる。
 禁酒禁煙を一生懸命やるのはいいとしても、その陰で黒光さんのような、悩みから解放されずに仏教の他力道へ傾く人がいるとすれば、無念でならない。
 放蕩に身を持ち崩した息子を一言の小言も言わずに喜び迎え入れてくれる父親。どんな姿でもいい、あるがままで父親の懐に帰って来ればさえそれでいい。
 イエス・キリスト尊い死は、それらの罪を贖ってあまりある。「禁酒禁煙」や倫理道徳でそれを無駄にすることが断じてあってはならない。
「禁酒禁煙」を励行したところで断固たる罪人に変わりないのだから。

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参考文献と引用箇所
武田清子『正統と異端のあいだ』東京大学出版会、1977年
153頁以下、154頁以下、162頁