私の口癖のひとつ、「なんだらかんだら」

私の口癖のひとつ、「なんだらかんだら」

「なにや、かにや」と正当な言い訳をして、キリストに従わない実態を意識しての私なりの表現と理解します。
私が、ほとんど毎朝歌う、笹尾鉄三郎先生作詞の賛美歌の一節には、
「ピラトの前の主を思いなば
 恥も縄目もなどかこつべき
 言い訳せずに 君に従わん」とあります。

私は、妻の君代に言わすと、「とにかくしつこい。
一度言い出したら、何回も何回も言い続ける」。
そうして、口癖となるのかも。

北海道は苫小牧の水草修二先生は、こんなことを書いておられる。
「宮村節「一度にすべてではなく」
 神学生たちの間で、しばしば「宮村節」ということばがささやかれた。すでに申し上げた「存在の喜び」、「人格は手段としてはならない」、「ことばの真実」それから「新しい天と新しい地」などは宮村節の代表格であろう。それぞれに味わわれるべきことばであるが、宮村先生の著作と歩みを理解する上で役に立つこととして、筆者がここで特に取り上げておきたいのは、「一度にすべてではなく」というフレーズである。これは「地域に根ざし、地域を超える」「体験でなく経験へと深まって」「マンネリを恐れず」といった表現と深い連関がある。この表現で、宮村先生は私たちに何を教えようとなさるのだろうか。現在の私の理解するかぎりにすぎないが、ここに記してみたい。」(宮村武夫著作1『愛の業としての説教』「喜びとの出会い」308頁)。

そして今、「なんだらかんだら」。