「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 しばらく経過後 再開④☆第十七話 イエスの姿が変わる(ルカによる福音書 第九章二八〜三六)

「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 しばらく経過後 再開④☆第十七話 イエスの姿が変わる(ルカによる福音書 第九章二八〜三六)

第十七話 イエスの姿が変わる(ルカによる福音書 第九章二八〜三六)
この話をしてから八日ほどたったとき、イエスはペテロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスエルサレムで遂げようとしておられる最後について話していた。ペテロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこられていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペテロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペテロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

 先週の聖書のお話では、イエスさまはお一人で静かに祈っていらっしゃいました。そのとき、イエスさまの側には、ペトロさんやヨハネさんなどの弟子たちが一緒にいたと言います。祈り終えたイエスさま、弟子たちに「人々はわたしのことを何者だと言っているのか」と、おたずねになりました。すると弟子たちは、「洗礼者のヨハネだと言っています」とか、旧約聖書に出てくる昔の偉大な預言者の一人のエリヤだと言っているとか、いろいろと他人の情報を並べるわけです。他の人がどのようなことを噂しているかということは、わたしたち人間にはいつも気になることです。

 「では、あなた自身はどのように信じているのですか。あなた自身はどのように理解しているのですか」と、イエスさまにたずねられたら、とっさにわたしたちはなんとお答えしたらよいのでしょうか。イエスさまの弟子のペテロさんは、「神から遣わされたメシア・救い主だと信じています」と、みごとなお答えをいたしました。

 後に、イエスさまが弟子のユダのうらぎりによってポンテオ・ピラトのもとにつかまえられて、十字架にかけられるのですが、そのときには、ペテロさんは、「わたしは、イエスを知らない」と、みごとにイエスさまを裏切ります。
同じ一人のペテロさんが、あるときはイエスさまを救い主だと言い切り、あるときは「わたしは知らない」と言い切るとは、一体どうしてなのでしょう。どのペテロさんが本当のペテロさんなのかと、わたしたちは考えてしまいます。

 けれども、待ってください。静かにわたしたちも、自分のことをペテロさんに重ねて眺めてみてください。わたしたちの中にも、二人の反対しあっている自分がいるかも知れません。

 あるときは、「イエスさまはやっぱり神さまの子なのだと信じたい。将来、自分はイエスさまを信じるクリスチャンになるだろうなと思う。」また、あるときは、「まだわからないかな。神さまのみ子がイエスさまかどうか。そんなこと信じたら、お友達やみんなに笑われるかも知れない」なんて、迷いが生まれてきますよね。わたしたちがこれから成長するにつれて、沢山の知識を学び知るようになります。すると、ますますわたしたちは信仰ということ、神さまのことが分かりにくくなったり、疑わしく思えたりしてくるかも知れません。

 けれども、それは神さまやイエスさまが疑わしいのではなくて、実は自分自身が勝手に決めた自分のあやしげな考えにとりつかれて、心の柔らかさを失ってしまったからなのです。難しい言葉ですが、偏見と言います。

 あるいはまた、心が扉を閉ざして、眠った状態になっているのかも知れません。ですから、なんの感動も、喜びも、まして真実も見えなくなってしまいます。
そのような心には神さまも、イエスさまのすばらしさも見えるはずはありません。

 ところで、今朝のお話は、ペテロさんがイエスさまにたずねられて、「イエスさまは神さまから遣わされた救い主」ですと答えた後に、みんなで山へ行きました。遠足ではなくて、祈るためにイエスさまたちはしばしば山に行かれました。そこで、心をこめて祈っていますと、イエスさまのお顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いていました。それは、神々しい、不思議な美しさだったことでしょう。見ると、旧約聖書のお話に出て来ます、偉大な預言者の二人、モーセとエリヤもいました。

 この神秘的な出来事をペテロさんたちは、このとき実はひどく眠かったのですが、じっと我慢して目を開けていたのです。すると、栄光に輝いているイエスさまと、その側に立っているモーセとエリヤが見えたのです。
 眠たかったのは、心の目が眠たかったのです。わたしたちの心が目覚めているとき、わたしたちは、イエスさまのすばらしい輝きに一体どのような意味がこめられているかを、見ることができるのです。でも、心の目が再び眠りについて閉ざされてしまいますと、「わたしはイエスさまのことは知らない」と言い始めるのです。
 ペテロさんが、「わたしたちが、ここにいるのは素晴らしいことです」と、感動して思わず叫びますと、またしてもイエスさまがヨルダン川で洗礼を受けたときと同じように、雲の中から一つの声がしたと言います。「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞きなさい」と。

 わたしたちの人生には、何度もイエスさまに耳を傾けて、真実とは何ですかと、聞く必要があることが沢山あります。
エスさまは、モーセとエリヤと何を語っていらしたのでしょうか。それは、わたしたちのためにエルサレムのあの大きく重たい十字架を背負うために、行かなければならないことを相談していらしたのです。それも、イエスさまの深い愛から出てきた決意でした。
わたしたち教会に集まる子供たちには、何よりも大きなイエスさまの愛があることを信じて感謝しましょう。
一九九〇・三・一八