「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 しばらく経過後 再開③☆第十六話 漁師を弟子にする(ルカによる福音書 第五章一〜一一)

「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 しばらく経過後 再開③☆第十六話 漁師を弟子にする(ルカによる福音書 第五章一〜一一)

 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎだして網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは、「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベタイの子ヤコブヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 今朝は十一月の最初の日曜日です。皆さんのお家にカレンダーがあると思いますが、今年もあと二枚だけになりました。クリスマスがある十二月のところをのぞいてみましたか。十二月二十五日が、赤い数字になっていますよ。今年のクリスマスはうれしいですね。イエスさまの日、日曜日と、ちゃんと一緒になっています。私たちも心をひとつにして、クリスマスを待ちましょう。

 イエスさまがお生まれになってから、おおよそ三十年がたった頃、イエスさまはいよいよ、すべての始まりである神さまのお話を、たくさんの人々に聞かせていらっしゃいました。
 ある朝も、太陽が青い空に美しく輝いていました。「ゲネサレト湖」、別の名前をガリラヤ湖と言います。湖の水面も、朝の光を浴びて静かに光っていました。
 ある本でよんだのですが、ガリラヤ湖には、「ペテロフィッシュ」という、ペテロさんの名前を付けた魚がいるそうです。魚が沢山いる湖だそうです。湖の周囲の原っぱには、赤や白、黄色のきれいな花がたくさん咲いて、風にゆれていました。おおぜいの人がイエスさまの噂を聞きつけて、是非、神さまのお話を聞きたいと集まっていました。おすなおすなの群衆に、イエスさまは、どこでお話をしたものかと、辺りを見回しました。すると、湖の岸辺に二艘の舟がおいてありました。舟の側では、ペテロさんが魚を捕るのに使う網を洗っていました。そのころペテロさんはまだイエスさまの弟子ではなくて、漁師でした。

 その日も、まだ太陽が昇ってこない暗いうちに、湖に出て、仲間のヤコブさんやヨハネさんたちと網をかけて漁をしたのですが、魚はひとつも捕れませんでした。魚を売って生活をしていたペテロさんでしたから、魚がなにも捕れないこの朝は、きっとがっかりしてしょんぼりとして網を洗っていたことでしょう。ちょっと気の毒なかわいそうな気がしますね。イエスさまは、力を落としているペテロさんをご覧になって、「私をその舟に乗せて、岸から少し離れたところへ漕ぎだしてほしい」と、頼みました。魚が捕れなかった舟にお乗りになって、イエスさまが舟の上から人々にお話しになりました。神さまの国とはどのような国かとお話しになりました。ペテロさんもイエスさまの心にしみるお話にじぃっと耳を傾けていたにちがいありません。「これは大変に偉い先生だ」と驚いたにちがいありません。

 お話が終わりますと、イエスさまはペテロさんに言いました。「舟を沖の方へ漕ぎだして、網をおろして魚を捕ってごらん」と。魚は、まだ太陽が昇らない暗いうちでないと捕れません。それなのに、今は太陽がさんさんと輝いています。しかも、沖に張る網ではありません。もっと浅いところで使う網なのです。ペテロさんは漁にかけてはプロですから魚の捕り方はよく知っています。ですからイエスさまに言いました。「先生、私は夜の間ずっと魚を捕ろうと働いていましたが、魚はなにひとつ捕れませんでした。けれども、先生のお言葉に従って、網をおろしてみましょう。」
 ペテロさんは、この時イエスさまを信じて大変に素直な思いになっていました。「捕れるわけないですよ。決まっているでしょう」とは言いませんでした。ペテロさんが、イエスさまのお言葉に素直に従って網をおろしたとき、なにが起こったでしょうか。舟が沈みそうになるほど、おびただしい魚が舟いっぱいに捕れたのです。漁師のペテロさんはそれはびっくりしました。魚の量に驚いたでしょうけれど、それよりももっと驚いたのは、「このお方は唯の先生ではない」と言うことに気づいたことです。「主よ」と、イエスさまのことをお呼びしました。イエスさまは神さまの力を備えていらっしゃる尊いお方なのだと知ったとき、ペテロさんは、「主よ、私から離れてください。私は罪深いものです」と、申し上げてイエスさまのひざもとにひれ伏しました。

 クリスマスの日の、あの厩に集まって、み子イエスさまを拝んだ博士や羊かいたちと同じようにです。
 神さまのみ子イエスさまは、そんな人間の小ささも、弱さもみんなご存知です。そして、そのままでいい、私の手にしっかりと捕まっていればそれでよいと、おっしゃってくださいます。ペテロさんは、魚よりももっと素晴らしい神さまの恵みによって、いっぱいにしていただきました。それは、「魚を捕る漁師でなくて、これからは人間にイエスさまのみ言葉を伝えていく人。つまり人間を捕る漁師にしてあげる」と、おっしゃったのです。「人間を捕る漁師にしてあげる」なんてイエスさまは面白いことをおっしゃいましたね。イエスさまに捕まった魚は幸せな魚になるでしょう。なぜなら、イエスさまのみ言葉は、いつでも、どこでも、悲しみを喜びに変え、喜びは感謝に深めてくださるからです。
もちろん、このお話のおわりはペテロさんもヤコブさんもヨハネさんも、喜びと尊敬を心に抱いて、イエスさまの弟子となっていきました。

主なる神様。
ペテロさんがイエスさまを知ったときのあの驚きと喜びを、私たちにも教えてください。そして、イエスさまに従うものとならせてください。アーメン
一九八八・一一・六