カレッジとユニバーシテイ ー日本クリスチャンカレッジを生きる−,2年後の今再録

カレッジとユニバーシテイ
ー日本クリスチャンカレッジを生きる−,2年後の今再録

★以下の文を、2年前に書きました。
この2年間の間に伝え聞く、TCUでの大学院の研究と教育への労に敬意を払うと同時に、湊先生が提唱リベラルアーツの重みに共感を深め、また母校開成の中高教育に徹する歴史への感謝を新たにし(「開成と伊江島主僕キャンプ」の中で、以下のように要約しました、「開成の長い伝統は、まさに中高生に焦点を絞る教育であったことは、万人が認めるところです。中高の上に大学設置など決して考えず、ただひたすら中・高生の教育に当たる。その結果、数多くの優れた大学教授や学長を生み出し、それぞれの大学教育の場で豊かな実を結んでいる事実を誰も否定できません。」)、その上で個人的な神学教育に徹しようとする、テオピロ神学リンクのささやかな営みの継続を覚悟するのです。

宮村 武夫
2014年12月31日 7:51 ·

カレッジとユニバーシテイ
ー日本クリスチャンカレッジを生きる−

日本クリスチャンカレッジの学生や東京キリストを教短期大学・TCCの教師として、終始一貫して意識し、提唱してきたことは、クリスチャンカレッジとある人々が主張するような牧師養成校としての神学校・セミナリーとの区別です。
 牧師になるために聖書学ぶのでなく、人間として生きるために聖書を学ぶ、この一事です。
 また内村鑑三がアマスト・カッレジを選択の意義を考えます。
親友の宮部金吾がハバートユニバーシティー新渡戸稲造がジョン・ポプキンズユニバーシティートに進む中で、あえてアマストカレッジに進み、そこで内村が経験した事柄の検討は、実に大切と理解します。
 日本クリスチャンカレッジが範としたホイトンカレッジも、ユニバーシティーの道を歩んでいないと見ます。
 こうした点から、東京キリスト学園が、東京クリスチャンカレッジの名を捨てて、東京クリスチャンユニバーシティーを名乗るようになった真意を理解しかねるのです。
 少なくとも個人的には、日本クリスチャンカレッジを生き抜きたいと、共に日本クリスチャンカレッジで学んだ親友の30年前の召天の重みを覚えながら、改めて心定めたのです。