「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 その16 森弥栄子姉の第10話 ヨハネ1:19−34

「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 その16 森弥栄子姉の第10話 ヨハネ1:19−34

第十話 バプテスマのヨハネヨハネによる福音書 第一章一九〜三四)

さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムユダヤ人たちが、祭司やレビ人とたちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。
『主の道をまっすぐにせよ』と。」
遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアさも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、〝霊〟が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『〝霊〟が降って、ある人にとどまるのを見たから、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

二千年前のクリスマスの夜、ユダヤベツレヘムという小さな町の、馬ぶねの中で、イエスさまが神さまの子としてお生まれになりました。けれども、そのイエスさまが、神さまから贈られた尊い恵みだと知っている人は、ほんの少しの人たちだけでした。ほとんど多くの人は、このことをまだ知りませんでした。

エスさまも、みなさんのように子供だった頃もあり、やがて、三十年近い年が経ちました。そのころ、ユダヤの国を通して流れている大きな川、ヨルダン川の近くに、洗礼者ヨハネという人が現れました。
新約聖書の「ルカによる福音書」には、このヨハネという人は、イエスさまのお母さまでいらっしゃる、マリアさまの親戚に当たるエリザベツさんの子供だと書いてあります。けれども、ヨハネは大きくなるこのときまで、「わたしは、イエス・キリストを知らなかった」と、言っています。

ヨハネは、大きくなると荒野に行って、信仰のためにいろいろと修行をし、勉強をしてきたようです。旧約聖書の時代に信仰の修業をしていた預言者の人たちが生活していたように、いなごと野蜜を食べ、駱駝の毛衣を着て、皮の太い帯を腰にしていましたと、聖書は書いています。ヨハネは、質素で力強く、神さまにたいして正しい生き方をしていました。
ヨルダン川のほとりで、ヨハネは、なにをしていたかといいますと、大勢の罪ある人々に悔い改めの洗礼(バプテスマ)を授けていたといいます。クリスマス会の日の「世界のはじめ」にありましたように、アダムとエバの時から人間は神さまを神さまと思わず、自分中心に生きていました。その結果、長い間いろいろな不幸がおこりました。
ヨハネは、そのような、神さまを忘れた自分中心の生き方を改めて、神さまを尊び神さまのみ胸に心を向ける生き方に変えなさいと、人々に話しました。そして、神さまの方に自分の心を向きなおしたいと決めた人には、ヨルダン川の水で、清めの儀式という洗礼(バプテスマ)をしてあげていたのです。これは洗礼を授けるといいます。洗礼を人々に授けていたヨハネのところへ、ユダヤの国の宗教家で、一般に偉いと思われていた人たちがやってきて、「いったいぜんたい、あなたはだれですか。キリストですか。なんのために、どんな資格があって洗礼を授けているのですか」と、とがめるように尋ねます。無免許で洗礼を授けているではないかというところでしょうか。

そこで、ヨハネは負けてはいません。毅然として答えます。「わたしは、みなさんが待ち望んでいるような、救い主・キリストではありません。」ヨハネは自分がキリストではないことを、はっきりと言います。「わたしは、昔むかし、旧約聖書に書かれているイザヤという預言者が言っていた、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」と、言います。わたしはキリストではありません。キリストがこのイスラエルの国に現れてくださるために、その準備のためにわたしはここに来て、主をお迎えするのにふさわしい、正しい、清い心になれるよう悔い改めなさいと、叫んでいる「声」にしかすぎないのです、と言うのです。
人々の中には、ヨハネのことを救い主・キリストか、預言者エリヤか、終末の時現れる預言者かと思っている人たちがいましたので、そうではないと言いました。
それどころか、こんなに大勢、洗礼を受けに集まってきている人々の中に、あなたがたの知らない、実は、ほんとうに尊い方が立っていらっしゃるのです。「わたしはその方の靴のひもを解く値打ちもないくらいなのです」と言って、もうその時、人々の中に、ほんとうの救い主・イエスさまがおいでになっていることを宣言するのですが、誰もまだその意味がわかりませんでした。

「ルカの福音書」に書いてありますが、イエスさまもヨハネから洗礼をお受けになりました。洗礼をお受けになったイエスさまが祈っていらっしゃいますと、聖霊がハトのように天から降ってきて、イエスさまの上にとどまりました。それで、ヨハネはこの方こそ神さまのみ子イエス・キリストだと知るのです。イエスさまこそは、水でなくて父なる神さまからの聖霊の力によって、人々に洗礼を授けるお方だとヨハネは知っていました。

次の日、向こうの方から、イエスさまがヨハネに近づいてくるのを見て、ヨハネはイエスさまをさししめして言いました。「見よ。世の罪をとり除く神の子羊。」ヨハネは、ヨルダン川ではじめてイエスさまに出あったはずですのに、イエスさまのことをなにもかも知っているようでした。
罪のない、美しい、正しい、神のみ子としてイエスさまがこの世に来られたこと、そして後に、人類全体の罪を代わってご自身の身に引き受けてくださることを知っていました。イエスさまが、ご自分を神さまへの献物の子羊としてくださることを、ヨハネは知っていました。それでヨハネは自分の信仰を告白して、イエスさまを神の子、救い主・キリストですと証ししたのです。

神の子羊でいらっしゃるイエスさまにであったヨハネは、じぶんたちみんなの罪を赦してくださるイエスさまの大きく、深い愛のみ心を感じていました。
イエス・キリストさまに出あう人は、今の時代でもイエスさまの大きな愛のみ心に励まされて神さまの前に生きていける人となるのです。みなさんも、きっと、いつか神さまの子羊・イエスさまに出あう日があります。その時みなさんはイエスさまの聖霊による洗礼を授けられる喜びが、どんなに深く、大きく、素晴らしいかがわかることでしょう。

一九八八・一・一〇