「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 その5 森弥栄子姉の第三話

「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 その5 森弥栄子姉の第三話

第三話 モーセの召命(出エジプト記 第三章一〜一五)

 モーセは、しゅうとでありミディアンhanashiの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのであろう。」
 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と応えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。
 主は言われた。わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々とした素晴らしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上がる。
 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
 モーセは神に尋ねた。
 「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らになんと答えるべきでしょうか。」
 神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」神は、更に続けてモーセに命じられた。
 「イスラエルの人々にこう言うがよい。あなたたちの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主がわたしをあなたたちのもとに遣わされた。
 これこそ、とこしえにわたしの名
 これこそ、世々にわたしの呼び名

 十月の礼拝から、わたしたちはずっと旧約聖書のお話をたどってきました。神さまが天と地をお造りになり、そしてわたしたち人間や生命ある動物や植物をこの世にお造りになりました。それから人間が神さまに逆らった生き方をしたために、ノアという人の時代には恐ろしい洪水が起こって、人間も動物もことごとくこの地上のものは滅ぼされました。ただ、例外があって、ノアという人の家族と動物たちだけは、神さまの裁きを受けずにすすみました。ノアが神さまの目に正しい生活をしていたからです。
 
 ノアの洪水のお話も、むかしむかしのお話になってしまった、長い長い年月が経ったとき、アブラハムという人がいました。ある日のこと、「アブラハムよ、生まれ故郷の父の家を離れて、わたしが示す新しい土地に行きなさい」と、神さまの呼びかけがありました。
 それで、アブラハムは神さまの呼びかけに応えて、一家を引き連れて新しい土地へ移って行ったという、お話が先週ありました。
 
 旧約聖書のお話を読んでいますと、きっと、皆さんもおやっと思うことでしょうが、神さまに呼びかけられて、新しいところへ旅を続けていく人のお話が多いのです。皆さんも知っている、英国のバンヤンという人の「危険な旅」という物語も、主人公のクリスチャンが信仰に導かれながら、この世を旅して行くお話です。バンヤンはこのお話を、聖書の中から思いついたということです。
 
 今朝の聖書のお話は、アブラムがアブラハムと名前を変えて生きた時代からさらに永い年が過ぎ、アブラハムの子孫の、子孫の、そのまた子孫の時代になっています。アブラハムの子孫は、その頃生まれ故郷から遠いエジプトの国で生きていたと言ったらよいと思います。アブラハムの子孫にとってエジプトの国は、外国でした。外国での生活も初めのうちはお客様扱いで、エジプトの人に大事にしてもらえましたが、百年も二百年も経ちますと、もう大事にされるどころか、差別されたり、重い労働を負わされたりして、それは辛い生活を強いられていました。現代では奴隷という身分の人はいませんが、その頃のアブラハムの子孫のイスラエル人たちは、エジプトの国で奴隷となって働かされていました。奴隷とはまったく自由が認められていない身分の人たちでした。
 
 そのような辛い生活をしていたユダヤ人の中から、モーセという偉大な人が現れました。旧約聖書モーセの物語は「出エジプト記」と題される長編の物語です。興味のある人は、いつか一度は読んでみてください。「十戒」という映画にもなっています。
 
 ある日のことです。モーセが羊の群れを連れて「神の山ホレブ」へ登って行きました。モーセは羊飼いでもあったからです。ところが、大変に不思議なことに出会いました。「柴」と呼ばれている木立が炎に包まれて燃えているのです。燃えているのに、その木は燃え尽きません。モーセはいよいよ不思議でたまらず、木立の近くにそおっと寄っていきました。すると、燃える木立の中から神さまの厳かな声がしました。「モーセよ、モーセよ」と、お呼びになりました。モーセは「はい」と答えました。アダムとエバのように、茂みの中に隠れたりはしなかったのです。
 
 モーセが今立っているホレブの山は、神聖な場所なのだと主はおっしゃいました。また、「わたしは、あなたのお父さんの神である」と神さまが自己紹介をされました。「あなたの遠い先祖たち、あのアブラハムの神、その子イサクの神、またその子供のヤコブの神である」ともおっしゃったのです。よその国エジプトで、自分たちの先祖を導いていた神さまの声を突然聞いたモーセは驚きました。しかし、その声の主は「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見た。民の苦しみの叫び声を聞いた。苦しむ人の痛みを知った」と、深い優しさを示してくださいました。「だから、苦しんでいる人々をエジプト人から救い出して、新しい広々とした、豊かで素晴らしい土地へ導いて行こう」とおっしゃいました。「さあ、今すぐエジプトの王のところへ行きなさい。そして、わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。救い出すのだ」と、またしてもモーセに新しい所への旅を命じました。
 
 モーセは神さまのこの命令にとまどいました。自分にはそのような大きな仕事を果たせる意思も力も権威もないのに、どうしてそのようなことができましょうかと、恐ろしくなりました。考えれば考えるほど、神さまのご命令に従うのには、あまりにも自分は意気地なしですし、小さな人間でしかありません。神さまの前にぬかずいて、真面目になって自分を見つめてみるとき、人は正直のところ「わたしはいったい何者でしょうか、神さまにお声をかけていただけるほど、すぐれたものではないはずなのに」と、思わずにはいられなくなります。モーセはきっと、神さまのみ心のご用にたてる人間ではないと、ひるんだことでしょう。
 
 そのようなモーセの弱さを知って、神さまは「わたしは必ずあなたと共にいる」と、力強いお言葉で励ましてくださいました。神さまのお姿は柴の炎に包まれて見えません。誰も見たことはないのです。「お名前を聞かせてください」と、モーセが願っても「わたしはあるという者だ」としか、告げてくださいませんでした。しかし、モーセは神さまの力強いお言葉「わたしは必ずあなたと共にいる」とのお約束を堅く信じて、それからの四十年あまり、神さまに従っていきました。エジプトから、苦しむ人々を救い出すという神さまのご計画のために、自分の生涯を捧げました。
 
 やがて、新約聖書では「罪という名の心の中のエジプト」から、わたしたち一人一人を救い出してくださる、モーセよりも偉大なお方が現れました。燃える柴の中からではなくて、栄光に満ちた十字架の上から、わたしたちに今もなお呼びかけてくださいます主イエス・キリストです。その声は、
 「わたしは、必ずあなたと共にいる」と呼びかけていらっしゃいます。
 わたしたちもまた、信仰の実りとして魂の救いを、イエス・キリストによって、喜んで受けたいと心から祈りましょう。
一九八九・一一・一二