「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 その4 森、弥栄子姉の第二話 原罪(創世記 第三章一〜一三)

「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 その4 森弥栄子姉の第二話 原罪(創世記 第三章一〜一三)

主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。
 「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
 女は蛇に答えた。
 「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
 蛇は女に言った。
 「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ。」
 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。
 「どこにいるのか。」
 彼は答えた。
 「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
 神は言われた。
 「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じたあの木から食べたのか。」
 アダムは答えた。
 「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」
 主なる神は女に向かって言われた。
 「何ということをしたのか。」
 女は答えた。
 「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

 先週、F先生がお話してくださった、旧約聖書のお話を思い出してください。
 そのお話では、神さまが、ご自分の形に人をお造りになり、男の人と女の人を造ってくださいました。それは、神さまが大変、人を愛していてくださったからでしたね。
 そして、神さまは人類の最初の人として、男の人と女の人を、エデンの園と呼ばれる、喜びと楽しみに満ちた、美しい園に住まわせました。
 初めのうち、人は、エデンの園で、それは幸せに暮らしておりました。なぜなら、いつも神さまのお言いつけを守り、神さまのお言葉に耳を傾けたり、神さまにお話申しあげたりすることができたからです。神さまも、神さまのみ心を素直に信じて生きている人を、いつも、お優しく見ていてくださいました。
 
ところで、園には、美しい木や実のなる木が沢山ありました。神さまは、どれもこれも、人のために造ってくださったのですが、たった一つ、人は、神さまのお言いつけを守らなければならないことがありました。
 「あなたは、エデンの園の、どの木からでも、心のままに実を取って食べてよろしい。しかし、善悪を知る木からは、取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと、死ぬであろう」と、神さまはおっしゃったのです。
 園の中央には、命の木と、善悪を知る木という二本の木があったのです。善いことと、悪いことを見分ける木からは、実を取って食べてはいけませんよ、と、神さまがご命令になったのです。なぜなら、神さまが一番愛しておられる、人が、悲しく、恐ろしい死という出来事に会わないために、神さまは厳しく命令なさったのです。神さまの深い愛の思いから出ていたことなのです。
 
けれども、そのような神さまの、人を愛していてくださる深い思いを、人は忘れてしまいます。そして、神さまに顔をそむけて、反抗しようとしたのです。これは、人の心に起こった神さまに対する罪の始まりでした。
 その罪の始まりは、こうして起こりました。エデンの園には、ずる賢い、悪知恵のある蛇がいました。
 ある時、その蛇が、女の人をだまそうとして言いました。「園にある、どの木からも、取って食べるなと、本当に、神さまが言われたのですか」と。神が言われることなど、本当に信じているのか、と言わんばかりです。そこで、女の人は、神さまを疑い始めました。それで、女の人は、噓をつけ加えて答えました。
 「神さまが、園の中央にある木の実を取って食べるな、その木にさわるな、死んではいけないから、と言われた」と、答えました。神さまは、食べるなとは言われましたが、さわるなとはお命じにならなかったのです。すると、悪い蛇は、女の人を、そそのかして言いました。「あなた方は、決して死ぬことはないでしょう。その実を食べると、あなた方の目が開け、神のように、善悪を知る者となることを、神さまは知っておられるのです。」
 神さまと同じ者になれると、教えられて、女の人は、自分も神さまになりたいという、とんでもなく、恐ろしい思いになったのでしょうか、蛇に言われるままに、善悪を知る木から取って食べてしまいました。しかも、男の人も、女の人のすすめるままに一緒に食べたのです。
 
するとどうでしょう、二人の目が開けたのですが、それは、人が想像していたこととは、まるで違い、素晴らしいことではありませんでした。神さまの前に二度と顔を見せられないような、恥ずかしい、悪いことをしてしまったという、思いになってしまいました。人は、もとのような素直な心をなくしてしまいました。
 ですから、夕方になって、涼しい風が吹くころ、神さまが、園をお歩きになると、二人は、神さまの歩かれる音を聞いて、木の間に隠れてしまいました。神さまのお顔を、まっすぐに見るのが恐かったのです。罪を犯したからです。
 
ところが、神さまは、隠れている二人を見つけて、声をかけてくださいました。「どこにいるのか」と。「そんなところに隠れているのはおかしいよ。何をしたというのか」と、人に、犯した罪の反省をするように呼びかけました。すると、男の人が、「神さまが、わたしと一緒にしてくださった女の人が、あの食べてはいけないと言う木から、取って食べさせたからです」と、言い訳をしました。神さまが造った女の人のせいだと言うのです。すると、女の人は、「蛇が、わたしをだましたので、わたしは食べました」と、蛇のせいにして、言い訳をしました。二人とも、「本当は、わたしが、神さまのご命令を守れなかったのです」とは、決して言いませんでした。悪いのは、自分ではなくて、あの人なのだと、他の人の責任にしています。神さまと自分との、お約束が、どうだったかは、すっかり忘れているのです。神さまに反発している、そんな、醜い人の心に、罪の始まりがありました。
 
そこで、わたしたちは、人間とは、そんなに罪の深いものなのかしらと、がっかりしてしまいますが、実は、その罪からわたしたちを救ってくださったお方がいらっしゃいます。イエスさまです。
 わたしたちのイエスさまは、神さまを、「お父さま」とお呼びして、十字架の出来事まで、神さまのみ心に従って行かれた、神さまのお子さまでしたことを、思い出しましょう。わたしたちが、イエスさまと共に生きるとき、始めて、本当に善と悪を知ることができるのです。そして、イエスさまだけが、人を罪から守って神さまに喜んでいただける、清らかな生き方を教えてくださるのです。
一九八七・九・一三