私にでもできる聖書の読み方

私にでもできる聖書の読み方


昨日は、敬愛する、石川福音教会兄姉を中心に、
半日修養会
 主の祈りにはげまされて
  −三重の恵みー
 日時:7月13日(水)10時ー13時半
 場所:クリスチャン・リンク 名護チャペル
    名護市為又1220−197
 改めての感謝の印に、以前書いた文を、重元先生に送ります。

私にでもできる聖書の読み方
[1]序
(1) みことばを中心にした交わりの感謝。
(2)今回のねらい、「釣った魚でなく、魚の釣り方」への一歩。

[2]「私にでもできる」
(1)人間・私、奇跡の「奇」、奇すしい存在としての人間・私の自覚と喜び。それは、聖書を読み、味わうつぼ割人生、その生活・生涯から生まれ、そこへ向かうのです。
 詩篇139篇13,14節
 「それはあなたが私の内臓を造り、
  母の胎のうちに私を組み立てられたからです。
  私は感謝します。
  あなたは私に、奇しいことをなさって
  恐ろしいほどです。
  私のたましいは、それをよく知っています」。
どうしてその事実を知ることができるのでしょうか。
そうです。聖書を読み味わうことを通し、聖霊ご自身の導きによるのです。
なぜなら、聖書は創造者なる神(偉大なメ−カ−)の人間・私に対する説明書です。
 説明書を軽視、さらに無視して、どんな小さな機械でも、自分勝手に動かそうとするのは、無茶な話です。まして奇跡的存在,奇しい存在である人間・私について、造り主の説明書を無視して、自分勝手な判断をするとすれば、それは乱暴な、無茶以上の話です。
 そうです。私たちが聖書を読むのは、人間として最も自然な、当たり前のことなのです。
 そして聖書は、私たちが理解し、従うように聖霊ご自身の導きにより書かれたのです。
同じ聖霊ご自身が、聖書を読み味わう私たち各自を助け導いて下さる、これが主の約束。
 逆に説明書だけを読み、実物の機械に触れない。聖書を単なる知識として知るだけで、実生活、実人生の現場で苦闘しながら従う、その本来の道を歩まない。それは寂しい話。

(2) 本当の慎み
  テモテに、そして私たちに与えれている励ましの約束。
 「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」(Ⅱテモテ1章7節)。
 父なる神様は、私たちに、「力と愛」を注いでくださいます。驚くべき恵みです。
 しかしそれだけではない。「慎み」、しかも本当の「慎み」をも与えてくださいます。
本当の慎みは、自分自身について調和のとれた判断を与えてくれます。
 私には、出来ない、またすべきでない、主の私たち各自への御心を確認。
 私でも、父なる神の御前に、言い訳しない。これが、つぼ割り人生、その生活・生涯。
 私にしか、主の申し分あっての私の存在、私の役割。なにしろ私は神の作品・神のポエム。だから掛け替えのない私が、私なりに聖書を読み味わう、これが御心の中で私の役割。

[3]聖書の読み方と子どもの話の聞き方
(1)子どもの上に立ったり、はすに構えては、子どもの言い分を受け留められられない。
   聖書の場合も、同じ、上に立ったり、横に構えるのでなく、「下に立つ」
    下に立つ、understand,理解

(2)少年サムエルと共に
 「僕(しもべ)きく語りたまへ」(Ⅰサムエル3章10節)の姿勢、態度、また生き方で。
 何が What 主題
 いかに How 展開
    ↓
 なぜ Why なぜ、意図、神学

(3)幾つか実際的手引き、その2、3
①小さなことばに意を注ぐ
 「しかし」、ロ−マ8章37節
 「そういうわけですから」、ロ−マ12章1節
 英語の知識の埃をはたいて、英語の聖書を参照する利点。Ⅱコリント8章9節、For なぜんなら これがあるかないかで、この箇所の流れの理解が左右される可能性大。
②数字は、いつも大切、最大の注意を。創世記25章20,26節
③ときに、いっき読みを。マルコ12章41−44節と13章1節

[4]結び
 聖書を神のことばと信じ、聖書、聖書と主張する私たちの立場は、非人格的な聖書という書物の中に、神を閉じ込め、自らも閉じこまるものだと批判される時があります。
 しかし事実は逆。生ける神が、多くの人々の生涯を通して書き記すことを善しとされた聖書(ヘブル1章1、2節、一度にすべてでなく)。この聖書を読む者に、生ける神が人格的に語り掛け,呼び掛けに応答し人格的交わりを持ち生きることを求めておられる。さらに、聖書を通して、エレミヤとかパウロとか、生き生きとした一人一人の聖書記者や聖書の登場人物と出会う。さらに歴史を通じて聖書に聴き従った数多くの人格と出会う喜びを経験を積み重ねる、深く豊かな恵みです。
 つぼ割り人生。人は生きているようにしか聖書を読むことが出来ない。聖書を読んでいるようにしか生きることが出来ない。