パウロ会余韻、奥多摩と妹恵美子

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 父泰二と母典子も子供である私たちは、男三人と一人娘恵美子の四人です。上の二人と下の二人は、戦争を挟んで年が離れています。
 妹恵美子は父を心から尊敬し愛していました。
 毎年パウロ会の準備をする、義妹和子姉の姿を見て、「お父さんに会ったこともないのに、よくあんなに心を込めて準備が出来るね]と感心していました。2011年12月、その年5月に沖縄kら関東に戻った私たち夫婦、特に君代と、数箇月心の交わりをなし召されて行きました。
 以前、以下の文を書きました。

奥多摩と妹恵美子

 2011年12月18日(日)、日本福音キリスト教会連合 奥多摩福音キリスト教会で、久しぶりで宣教を担当しました。同年秋9月30日に、『三十周年記念誌』を受け取り、以下のファックスを送ったことが直接の切っ掛けです。
「頌主。
本日は、貴重な記念誌を恵送−しかも速達で−くださり、心より感謝します。
ハルム宣教師ご夫妻、大通ご家族との交わりやあの当時の恵みを共に感謝すべく、大通俊雄・静子ご夫妻を訪問したく願っています。制約の中にありますが。・・・」

前日12月17日(土)から、君代と二人で奥多摩福音の家に宿泊をとお招きを受けていました。
しかしその17日の朝に、虎ノ門病院で長く入院していた妹嶋崎恵美子が63歳で召天しました。
君代は、10年前に父親も同じく肺がんで亡くしている二人の姪を、終始一緒にいて支える必要があり、私と一緒に17日から奥多摩に来ることが出来なくなりました。
そこで、IT関係の仕事で多忙な末子・新に無理を言って、奥多摩まで同伴してもらったのです。17日の夜は、新と久しぶりで話し合え感謝でした。

12月18日、実に恵み一杯の主日礼拝でした。
聖霊ご自身の導きを実感しながら宣教を続ける私の心には、幾つもの思い出が満ちてきました。青梅に住居を構え、奥多摩の福音の家の働きの基盤を据えていかれたハルム宣教師ご夫妻との幸いな交わり。子供たちは、青梅キリスト教会付属のもみの木幼児園に入園してくれました。
とき満ちて1981年9月27日、福音の家の一室で、奥多摩福音キリスト教会の教会設立礼拝が持たれ、青梅キリスト教会からも4名が参加、感謝な出発でした。
同年12月19日、特別伝道集会で私は宣教。1986年4月1日に沖縄へ移住する直前の2月9日にも、信徒修養会で宣教する機会などなど。

この30年の恵みを目に見える姿で体現する、大通ご家族ご一同。そしてそれぞれの時に、各自に即した主の恵みのお取り扱いを受け、群れに加えられた出席者の一人ひとり。
12月18日奥多摩福音キリスト教主日礼拝を中心に主の交わりが深められました。

しかしそればかりでなく、福音の家に避難しておられる福島第一聖書バプテスト教会の佐藤彰牧師、佐藤副牧師などと交わりは大きく広められました。
 君代の母教会・岩手県北上聖書バプテスト教会の開拓者あのホレチック宣教師ご夫妻は、北上の前に、福島第一聖書バプテスト教会の開拓をなさったのです。
 佐藤先生から貴重な三冊の著書とCD頂き、なお熟読中応答の手紙を差し上げました。

奥多摩で恵みが展開している同じ時に、妹嶋崎恵美子の葬りの備えが進められて行きました。
彼女の遺言に従い、弟三郎牧師が牧会する足立キリスト教会で式を執り行うことになりました。
まず12月19日(月)は、三郎牧師の司式で前夜式。Ⅰコリント13章13節に基づく、「信仰、希望、愛」の題で説教。母が50代で病死する中で、年の差が少ない姉恵美子と深い絆で結ばれ歩んできた三郎牧師でなければ語れない感動的な説教でした。

12月20日(火)は、三郎牧師が透析を変更できないため、兄の私がピンチヒッターとしで告別式の司式。聖書は、出エジプト20章12節から、「あなたの父と母を敬え」の題で確信に満ち宣教。
 式場に置かれた、気性のはっきりした恵美子の良さを表わす写真について言及しました。
それは、2010年3月17日、次女恵利華の東京女子大学卒業式直後に取られたものです。
長女英恵の早稲田大学卒業に続き、夫亡き後の責任を果たし得た清々しさがにじみ出ている写真で、式場のピンク系の花々に調和した明るい笑顔が印象的です。

 恵美子が卒業式当日聴いたメッセージを、湊晶子学長は、以下のように語り出されています。
「・・・2002年に学長に就任し、2期8年を全力で走り抜き、今日が最後の卒業式となりました。
 また今年は私が大学の仕事に就いて、ちょうど50年という記念すべき年でもあります。
 長い人生経験を踏まえて、次の半世紀を担ってくださる皆さまに心からのお祝いのメッセージを送りたいと思います」(湊晶子、『卒業したあなたへ入学したあなたへ』、39頁)。

 奥多摩と妹恵美子の結びについて、もう一つのことを覚えます。
それは、青梅線奥多摩福音の家へ行く手前、青梅市沢井の奥多摩キャンプ場(現奥多摩バイブルシャレー)の第一回中学生キャンプのことです。今から50年も前の話です。
 中学生だった恵美子がキャンプに参加したのです。確か男女別で、女子中学キャンプの講師は、日本クリスチャン・カッレジで教えておられたチョング房江先生でした。当時日本名槙を用いておられ、30代の中ごろではなかったでしょうか。
 キャンプから戻ってきた恵美子が、興奮気味で母親に向かい、「槙先生が、槙先生が・・・」と報告していた、江東区大島7丁目、広い貯炭場の一角に父が新築した住居での様を、昨日のように思い出します。さらに槙先生を通してのメッセージが恵美子の潜在意識の奥深く刻まれ、生涯影響を与えたと推察します。

 チョング房江先生からは、私自身も決定的な影響を受けました。
日本クリスチャン・カッレジ1年生の時、心理学を担当してくださいました。そのときの私のレポートは、「ヨハネによる福音書14章26節の理解」で、生涯を貫く聖霊ご自身と記憶の関係についての考察の出発点となりました。
 2年生の時は、教育学。レポートは、「教育者としての内村鑑三」、これまたです。
両レポートとも、宮村武夫著作Ⅰ『愛の業としての説教』中の「第二部日本クリスチャン・カッレジに学んで」に含まれています。

若くして召天なさったチョング房江先生に、その後一度だけお会いしたことがあります。1966年から1967年、佐藤之信・勝子夫妻と私たち日本クリスチャン・カッレジの同窓生4人が、マサチューセッツケンブリッジで同じアパートに住んでいた時のことです。
隣のメイン州の州立大学教授であるご主人と一緒にご夫妻で私どもを訪問して下さいました。
残念ながら、そのときの会話の内容を全部は思い出せません。しかし一つ鮮明に覚えている像・場面があります。色鮮やかな緑色のベレー帽が、苦難の道を切り開き前進し続けたに違いない先生にとってもよく似合っていたことです。
そうです。チョング先生は、若くして召天なさいました。
今妹恵美子も、63歳で召天しました。しかし不思議に私は全く淋しくないのです。
二人の奥多摩での出会いの故でしょうか。