ヘブル人の手紙11章の味読・身読 その8


ヘブル人の手紙11章の味読・身読 その8

『ラハブに学ぶ』 
ヘブル11章28−31節 
        
[1]序
 11章で、未だ見ないものを見続けてきた信仰の証人たちが次々と登場してきます。それぞれ旧約時代の代表的な人物です。その中で、31節では「遊女ラハブ」に、ヘブル人の手紙の著者は焦点を絞ります。
 31節の直前には、出エジプトとカナン入国とイスラエルの民の荒野の出発とゴールの二つのできごとを記しています。このイスラエルの民全体の特別な二つの出来事を記しています。このイスラエルの民全体の特別な二つの出来事に並ぶようにしてラハブ個人のことを描いています。
異邦人の女・遊女ラハムがイスラエルの人々に強い印象を残した事実は、ヤコブ2章14節以下の記述からも推し量ることができます。行為をともなわない信仰の空しさを語る中で、あるべき信仰と行為の関係を示す実例としてイサクを献げるアブラハムに続きヤコブはラハブをあげています。ラハブの行為が信仰の人アブラハムのそれと並び取り上げられています。

[2]ラハブの位置
 ではラハブはどのようなことをなしたのでしょうか。ヨシュア2章に記されています。イスラエルの民がカナン入国に先立ち斥候を派遣した際、ラハブは王の命令をも恐れず、彼らを匿うのです。なぜそのようなことをなしたのでしょうか(ヨシュア2:8以下参照)。   エリコの人々は先祖伝来の強固な城壁を頼りにしていた中で、ラハブは主なる神の力とご計画を知り、このご計画に自らもあずかりたいと願ったのです。それ故の行為です。ラハブはいろいろのうわさや評判を自分なりに分析、理解して、イスラエルの民の背後に唯一の神の御手を認め、イスラエルの勝利を見抜いたのです。
アブラハムモーセのように取り扱いや準備は記されていませんが、「信仰によって、ラハブは」と彼女の信仰が証されています。

[3]ラハブの三つの点。
 (1)信仰の行為、ラハブの望みを確信する姿
この異邦の女性はイスラエルの神のご計画を見抜き、その完成を信じています。神のご計画を大切に考え、自分をその中に入れられると信じています。他の人々とは違った彼女らしい判断を持ったのです。主なる神の存在とご計画を信じ、その中に自らを委ねて行為をなしたのです。

(2)ラハブの過去
遊女ラハブと呼ばれています。主なる神がこのラハブを信仰の系図の中に招き入れられたのです(マタイ1:5)。
モーセは生まれた時から備えられて、主なる神のご用のために用いられました。しかし主なる神の救いの歴史の進展においては、遊女ラハブも用いられるのです。長い訓練の時を通してモーセを備え用いなさるお方が、人のつまずきとなるような人物を選んで用いなさるのです。その人の過去を軽々しく裁いたり、自らの過去絶望したりすべきでないと教えられます。モーセを立てられるお方がラハブを用いなさるのです。

(3)「行為なき信仰は死せるもの
「同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです」(ヤコブ2:25,26)。

ヘブル人への手紙では、見えないものを見る信仰の父アブラハムを描き、ヤコブの手紙は信仰を行為によって現す人としてアブラハムを描いています。そしてアブラハムに並んでラハブを描きます。命懸けのラハブの行為です。ラハブは命懸けで信仰に生きています。

[4]結び
 遊女ラハブの存在は、あらゆる状態にある人々を救いに入れられる主なる神の恵みを示し、私たちに励ましを与えてくれます。また主なる神を信じた者の内に起こされる信仰が生み出す行為についても教えられます。
 人の過去にもかかわらず、その人なりにご計画のため用いなさる主なる神。他の人のレッテルや自分自身が張ってしまうレッテルにかかわらず、主なる神のあわれみを覚えて、主なる神のご計画の中で各自に与えられた分をわきまえ、分を果たして行く道を歩むように励まされます。アブラハムの神は、またラハブの神でもあるのですから。