百歳を越えられた芝姉との再会、感謝

百歳を越えられた芝姉との再会、感謝。芝姉について、前に、以下の文章を書きました。

『山路は、確かに越えられ』
 宮村武夫
 山下万里先生に、一度も私はお会いしたことがありません。
それなのに、ご召天後8年に出版された本説教集を、今回深い心のうなずきをもって熟読いたしました。

 ・・・山下先生が、西村清雄作詞の『山路越えて』を、「あれは勇ましい宣教の讃美だ』と受け止め、発言なさっていたのです。残念ながら、正確な記憶も薄れ、出典を調べることもできません。
しかし、あの『山路越えて』に思い出のある私にとって、山下先生の評価はとても嬉しかった印象は鮮明なのです。
 1957年1月から、高校卒業を待てずに、万代先生の松山開拓伝道の手伝い、「宮村君、主イエス様のために、悪いこと以外何でもしよう」の伝道初陣の期間に、聞いて知っていました。
 松山から宇和島への伝道旅行の途中での経験から、作詞者の西村先生は、この讃美歌を作詞なさったと。
   「山路こえて ひとり行けど、
    主の手にすがる 身はやすし」
 山下万里先生が、1960年から1970年まで松山教会を牧会なさったことを後に知り、伊予松山での生活体験に裏打ちされた、「山路こえて」理解なんだと合点がいきました。 

 ところがです。2008年2月、同じ四国の讃岐は丸亀の丸亀聖書教会の主日礼拝後、
当時94歳の芝房子さんが、驚いたことには、「あの時、西村先生は、宇和島の私の実家に向かわっておられたのです。」おっしゃるではありませんか。
そして次の年、同じく2月、「私の書いた小さな冊子です」と、ふじ色の冊子を手渡してくださいました。芝房子著、『小さな歌声で』(聖恵授産所、2008年)。56頁の美しいものです。
そこには生き生きと記されています。土佐の旧家の一人の娘が横浜のフエリス女学院で学び、卒業後土佐にキリスト者となって戻ってから展開される三代、四代と貫く恵みの結晶が。

 山路は、確かに越えられた。西村清雄先生と共に、伊予松山から宇和島へと。
そればかりではありません。確かに日本の教会史においての三代、四代、さらに五代、六代と世代を越えて。
芝房子さんも、小冊子『小さな歌声』を、もともとお孫さんのために書き出したのです。

 今また、山路は、確かに越えられているのです。山下万里先生と共に、松山から国分寺へ、国分寺から東所沢へ。
 しかもそればかりでない。山下先生の召天・死後8年の年月を越えて本書『死と生』へと確かに。
特にその7番目、死と生(1)と8番目、死と生(2)は、山下先生の白鳥の歌
「キリストによって新しくされた生命は続きます。その中で、地上の生活の終わりとしての体の死はあるのですが、それは命の終わりではありません。その体の死をも越えてなお命はあるのです」(235頁)。
 山路は、そうです、死は確かにキリストにあって越えられて、今後も前進あるのみ」。