2015年クリスマス・メッセージ
2015年クリスマス・メッセージ
世界で初めのクリスマス−難民生活と幼児大量虐殺のただ中で−
マタイ2:13−18
[1] 序
人間の悲惨な状態を、聖書は、驚くほど描いています。しかし、ともすれば、その事実は、無視されクリスマスとも軽視されがちです。
例えば、クリスマスの出来事についても、マタイの福音書2章1−12節で私たちがよく知っている、幼子イエスの誕生と当方の博士たちの訪問の場面にのみ焦点が当てられ、美しい生誕劇の一場面として演じられます。
しかし2章13節以下は、1−12節と切り離せません。当方の博士たちが帰って行った後、ヨセフとマリヤ夫妻は、幼子イエスを連れ、難民としてエジプトに逃れて行ったのです。
さらに三人が、ベツレヘムからエジプトへ逃れた後、ベツレヘムと近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず、ヘロデ王は殺害させたと報じられています。そうです、世界で最初のクリスマスは、こうした悲惨な出来事と切り離されることなく現実になったのです。
今日も、内外の悲惨なニュースを、耳にし、目にしています。これは、何も今年特別なことでなく、初めのクリスマス以来のことなのです。
そこで、初めのクリスマスの描写で軽視されがちな場面を注意し、今年のクリスマスの全体像を受け止めたいのです。
[2] 幼子イエスと家族、難民生活を始める、マタイ2:13−15
マタイ2:13節の前半、「彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現れて言った」と、2章1−12節の場面に匹敵する重要な出来事の展開を指し示しています。そうです、「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい」と、難民生活の始まりを端的に描きます。この緊急事態の背後には、「ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています」と、権力者の自己防御のためには、いかなる犠牲をも厭わない異常な殺意の存在。
ヨセフの応答は敏速です、「ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちの」(マタイ2:14)くのです。「夜のうちに」と、朝まで待てない切迫した事態が伝わって来ます。この敏速な行動こそ、強力な権力者の横暴な行動に対抗できる唯一の対抗策です。
[3] 幼児大量虐殺、マタイ2:16−18
「この幼子を捜し出して殺そう」とするヘロデの恐ろしい殺意は、弱い立場にある家族の,「夜のうちに」すべてを捨てて、出立する難民生活を呼び出したばかりではありません。
難民となった家族に勝るとも劣らない悲惨が、後に残った人々の上に襲ったのです。
なんと、ヘロデは、その後、「人をやって、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の男の子をひとり残らず殺させた」のです。その暴虐な行動は、「博士たちにだまされたことがわかると、非常におこって、人をやって」と、どこまでも自分勝手なものです。「だまそう」としたのは、「恐れ惑」(いマタイ2:3)いの中で、「私も行って拝むから」(2;8)と偽ったヘロデ自身です。
[4]集中と展開
(1)集中 苦難と喜びは、両立する。
(2)展開 難民は、人間が、本来旅人であることを、苦悩に満ちた極端な形で指し示している。
アブラハムが、父の離れ、旅だったように(創世記⒓:1−3)、人間・私たちは、「旅人であり寄留者」(Ⅰペテロ2:11)
幼児虐殺殺、幼児の死の事実と悲しみを、極端な形で指し示している。さらに幼児の死は、本来死ぬべき存在としての人間・私の姿を指し示しています。