先輩も後輩も そしてホーク学長の思い出

 先輩も後輩も そしてホーク学長の思い出

 宮谷先生の召天に続いて、1969年に出会ったTCCの学生の一人下里兄の召天が伝えられました。明日の葬儀には、君代と参列する予定です。
 この様な中で、日本クリスチャンカレッジのホーク学長を思い出します。

1958年春そして秋
 1958年、日本クリスチャン・カレッジに入学後まだ春の時期でした。
ドナルド・ホーク学長が、ホーク倫理と渾名で呼ばれていた授業で、
「たとい二、三名でも、キリストの御名により集い続けていれば、それはキリストの教会だ」との主旨を明言なさいました。
 私はいたく感動し、未だよく知り合っていない級友たちの誰か一人にでも心の思いを告げずにはおられず、話しかけた相手が、たまたま雨宮神学生だったのです。
 雨宮神学生も私と同じくホーク学長のことばに共鳴していました。
自分は(その後聞き続けることになる言い回し)、秩父野上町の出身、その地でカナダ人プライスとアメリカ人ジーンズ二人の婦人宣教師を通しキリスト信仰に導かれた。その恵みの事実を物静かに、こちらの心に染み渡る口調で話してくれたのです。

 しかしそればかりではなかったのです。あの二人の婦人宣教師は、秩父の入り口寄居で秋から新しく開拓伝道を始めようとしている。それで協力する神学生を切に求めていると話題は広がり弾みました。
 ホーク学長のことばに心燃やされていた私たち二人は、何回かの相談と幾つもの行動を重ね、ついに秋9月からは、極東十字軍(現センド国際宣教団)の寄居開拓伝道に私は協力神学生として初めから加わることを許されたのです。
 そうです。埼玉県大里郡寄居町のとても古い公民館で、床が抜けた幾箇所かに気を配りながら、部屋の中央にこじんまりと集っている数名の方々に向かい私は講解説教を始めるに至ったのです。
その日から日本クリスチャン・カレッジでの3年半、二人の婦人宣教師の深い祈りに支えられて説教を継続し、小さな主にある群れが成長する中で私自身が育てられました。
その小さな交わりは、素朴なみことばを中心とするもので、50年後の今も、最初の説教を覚えていると折に触れ私を励まし続けてくださる方々もいます。
さらに日本クリスチャン・カレッジ卒業後、寄居キリスト福音教会の初代の牧師としての招きに応じました。

(この間、万代恒雄先生が、四国愛媛の松山福音センターにあって、どのように寛大な心で祈り導き続けてくださったかは、それはもう一つの恵みの物語です)。

 極東十字軍(現センド国際宣教団)の働きの結果誕生した幾つかの地域教会が日本新約教団として形成されて行く過程で、雨宮先生と私は、「聖なる公同の教会を信ず」と告白する者として今ここでいかに考え何をなすべきかを求め続け、日本クリスチャン・カレッジ時代から終始一貫同じ確信に立ち一致した行動を重ねてきました。