2015年8月21日(金)③再び、「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」

2015年8月21日(金)③再び、「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」
 2015年夏から秋への歩み、それなりに、一つの節目を通過しつつあると自覚し、小さなくとも一歩踏み出したいと覚悟しています。
 そのような今、昨年10月に書いた、「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」を、立たされている基点として、再び確認しています。

聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時(その1) 本紙編集長としての歩みを続けている中で、桐生悠々(1873〜1941)の名を何回か見聞きしています。理由の一つは、現在私たち夫婦が購読している新聞にあります。太平洋戦争中に新聞統合される前の一つ、新愛知新聞の主筆として、1914年から桐生は、社説やコラムで反権力の論説を展開していたのです。

 1980年代の初め青梅キリスト教会牧師時代、M夫人から、彼女の祖父・桐生悠々の名を初めて聞き、2冊の新書を頂きました。

 桐生が信濃毎日新聞主筆であった1933年執筆の「関東防空大演習を嗤(わら)う」を読んで受けた強い印象、そうです、その12年後多くの都市が直面した空襲の悲惨を予告、たじろぐことなく記述する明晰な文章の力を、今でも鮮明に記憶しています。あの時から30数年後、今このとき、もう一度あの文章を精読しています。

 そもそもMご夫妻との出会いは、私たちが米国に留学していた1967年、マサチューセッツ州ケンブリッジ市の同じアパートに住んだことによります。M氏は、道路公団から派遣されて、マサチューセッツ工科大学(MIT)に学んでおられ、私たちはとても親しくなり、やがてMご夫妻は、小さな日本語聖書研究会にも参加されるようになったのです。

 私たちの交流は、帰国後もMご夫妻の国外勤務を挟んで継続、ついにご夫妻は吉祥寺教会で受洗しました。その前後、M夫人は、桐生悠々が子どもたちを皆ミッションスクールに進学させた事実を強調されながら、祖父・桐生悠々の名を伝え、2冊の新書を思いを込めて手渡してくださったのです。
すでに召天されたM夫人をしのびながら、桐生悠々との対話を改めて始めたいのです。

聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時(その2)
桐生悠々(1873〜1941)の名を初めて聞いたのは、書物を通してではなく、1966年から始まったMご夫妻との出会いと交流を通してでした。M夫人の祖父として紹介されたことから、特別に尊敬する親族の一人のような親しみを悠々に対して抱いていました。

その後、2011年5月に25年振りに沖縄から関東に戻り、その10月に北陸宣教旅行へ出かけた際、今度は曽祖父・宮村撃との関係で、悠々に一段と親しみを持つようになったのです。

宮村撃については、加賀藩士であり、「撃」の名の通り、すこぶる気性の激しい人であったと、小学生の頃から祖母に聞いており、強い関心を持っていました。

そのため、初めて金沢を訪問した際、友人に石川県立図書館へ案内していただき、「加(賀)能(登)越(中)郷友会雑誌」(197号)の記事を入手したのです。ところがちょうどその時、桐生悠々の企画展の案内が掲示さており、悠々も金沢の出身、旧加賀藩士の三男である事実を知りました。それが強く印象に残り、時代こそ前後してはいても、悠々と撃とが私の中で重なり合うようになったのです。

撃は、長岡城攻略に加わり、「十三四才の少年なりしも敵の名ある武士と短兵接戦し遂に其首を提げて帰りたり」とと、資料を通して伝えられる経験をしています。

 また恩義を大切にする一面と共に、撃は、「一度自己の意に満たさるか又は不正の点を看破するあらば一歩も仮借する所なく其對手の地位名望の如何に顧慮する所なく直前猛進之を廣人稠座の中に罵倒するに至れり此れを以て人皆な氏を目して一種の暴者の如くの唱へし」と指摘される激しさを持ち続けています。

 そんな彼に対して、「独り氏を罪すべきにあらず寧ろ氏をして沈黙を守らしむる底、社会は正気を以て充満し在らざるなりといふ人」もあったと郷土誌は伝えています。
 そうです、私の中で、悠々と撃の重ね読みが生じているのです。

聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時(その3)
 桐生悠々(1873〜1941)は、長年交流を重ねたM夫人が自分の祖父として紹介してくれた最初の出会いや、曽祖父・宮村撃との関係で、以前から親しみを覚える存在でした。しかし今、特に2つの視点を軸に、改めて悠々に学びたいと思いを新たにしています。

 1つの軸は、悠々の全生涯で繰り返される挫折と、その中での新たな前進です。1892年(明治25年)、19歳で小説家を志して旧制第四高等学校を中退し、上京したにもかかわらず、目的を達せず帰郷。この挫折を乗り越えて、1895年(同28年)には、東京法科大学政治学科(現東京大学法学部)に入学するのです。この一事は、悠々の全生涯の予表です。

 幾つも職業を経験した後、1910年(同43年)信濃毎日新聞主筆に就任。反響を呼ぶ社説を執筆し活躍しますが、1914年(同47年)には社長と対立し退社します。

 その後、衆議院議員選挙落選や自ら発行した日刊紙の廃刊などの挫折の後に、悠々は、1928年(昭和3年)に信濃毎日新聞主筆として復帰。再び健筆を振るいます。しかし1933年(同8年)、社説「関東防空大演習を嗤(わら)う」が契機となった不買運動の展開のため退社を強いられるのです。

 第2の視点は、亡くなるまで生涯の最後8年間続けた個人雑誌「他山の石」です。信濃毎日新聞主筆の2度目の退社、この決定的な挫折を越えて、「なお」なのです。悠々の志は、「他山の石」廃刊の挨拶に明示されています。

 「(8年間)超民族的超国家的に全人類の康福を祈願して孤軍奮闘又悪戦苦闘を重ねつゝ今日に到候が・・・やがてこの世を去らねばならぬ危機に到達致居候故、小生は寧ろ喜んでこの超畜生道に堕落しつゝある地球の表面より消え失せることを歓迎・・・ただ小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極」
 要は、志です。